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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

著作人張振康📅 2021

In April 2022, Osaka City University and Osaka Prefecture University marge to Osaka Metropolitan University Title 宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の 交差 Author 張, 振康 Citation 人文研究. 72 巻, p.77-97. Issue Date 2021-03-31 ISSN Type 0491-3329 Departmental Bulletin Paper Textversion Publisher Publisher 大阪市立大学大学院文学研究科 Description 野崎充彦教授 : 井狩幸男教授 : 大場茂明 : 池上知子授退 任記念 Placed on: Osaka City University Repository Osaka Metropolitan University 人文研究 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 第72巻 2021年 3月 77頁~97頁 研究論文 宋代の珠江デルタ地域に

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In April 2022, Osaka City University and Osaka Prefecture University marge to Osaka Metropolitan University

Title

宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の 交差

Author 張, 振康 Citation 人文研究. 72 巻, p.77-97. Issue Date 2021-03-31

ISSN

Type

0491-3329 Departmental Bulletin Paper

Textversion Publisher Publisher 大阪市立大学大学院文学研究科

Description

野崎充彦教授 : 井狩幸男教授 : 大場茂明 : 池上知子授退 任記念

Placed on: Osaka City University Repository

Osaka Metropolitan University

人文研究 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 第72巻 2021年 3月 77頁~97頁

研究論文

宋代の珠江デルタ地域における 南海神信仰と媽祖信仰の交差

振 康

媽祖信仰が南宋期に珠江デルタ地域に伝わっていくようになってから、現地で発生した南

海神信仰との出会い、融合、衝突といった交差が始まる。先学にはすでに両者の比較をめぐっ

て取り扱ったものがある。しかし、この両信仰の具体的交差についてまだ十分に検討された

とは言い難い。本稿では、慶元年間に起こった大奚山の反乱事件、および南宋期広州城にお

ける両信仰とかかわる祭祀空間、この二つの事項を通して、南宋期珠江デルタ地域における

南海神信仰と媽祖信仰の関係性をめぐって検討を行う。関連した歴史的考察を通して、せめ

て南宋期において、媽祖信仰が珠江デルタ地域での影響力が限られていた。つまり、当該地

域において、南海神信仰と媽祖信仰といった両者の影響力の間には、著しい差異がみられる。

キーワード:大奚山 顕霊 南海神廟 広州媽祖廟

はじめに

南海神は東・南・西・北の四大海神の一つであり、その祭祀場所である南海神廟が広州に設

置されている。隋代から朝廷は政権の正統性を自ら顕彰するため、南海神に対して祭祀を行い

はじめた。宋代に入ると、南海神は珠江デルタ地域の保護神となり、それに伴って南海神信仰

は民間で影響力が広がっていった。同時に、福建(cid:2)田から発生した媽祖信仰は南宋期から珠江

デルタ地域に伝わっていった。珠江デルタ地域で出会ったこの二つの信仰で交差が発生したこ

とは言うまでもない。

宋元時代の南海神信仰と媽祖信仰に関して、すでに両者の比較をめぐって取り扱った研究成

果がある。しかし、この両信仰の具体的交差についてまだ十分に検討されたとは言い難い。

李獻璋『媽祖信仰の研究 1)』には「廣東地方への傳播と影響」の一節が設けられ、徐曉望

『媽祖信仰史研究 2)』の第三章「宋代(cid:3)洲女神廟與受封」においては、広東地域における媽祖

信仰の展開をめぐって考察が行われた。また愛宕松男『東西交渉史』には「天妃考 3)」があり、

この三人は媽祖研究の立場からこの問題を取り扱っている。

一方、古林森廣『中国宋代の社会と経済 4)』の第一章「宋代の海神廟に関する一考察」と王

元林の『國家祭祀與海上絲綢之路 5)』の一節「兩宋南海神、天妃的封號與崇拜」は、南海神研

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振 康

究の立場から検討を行っている。

本稿では、先行研究の成果を踏まえつつも、まだ十分に検討されていない分野、つまり両信

仰の交差に注目し、南宋期珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の関係性をめぐって

検討を行う。

1)大奚山島住民叛乱をめぐる媽祖信仰と南海神信仰の交差

現在の香港は珠江の東側の入り口にあたり、福建と広東の海域交流において必ず通るスポッ

トである。慶元三年(1197)に当該地で発生した大奚山島住民の叛乱事件は、媽祖信仰と南海

神信仰の交差を見る際に重要な事項である。一方、香港は、媽祖信仰が福建から珠江デルタ地

域に伝わる最初の拠点でもある。そのため、上記の両信仰の交差を検討する前に、当該期の香

港地区についてその地理環境を確認しておく必要がある(文末の附図を参照)。1955年に香港

で南宋期の石刻が発見された。石刻の内容は下記の通りである。

古(cid:2)厳益彰、官是場。同三山何天覺来遊(cid:3)山。攷、南堂石塔、建於大中祥符五年。次三山

鄭廣清、(cid:4)石刊木、一新兩堂。續、永嘉滕了覚継之。北堂古碑、乃泉人辛道朴鼎剏於戊申、

莫攷年號。今三山念法明、土人林道義繼之、道義又能宏其規、求再立石以紀。咸淳甲戌六

月十五日書 6)。

上記の石刻は香港の大廟湾つまり佛堂門の北岸で発見された。佛堂門とは、現在香港新界西

貢区の南東部にあり、大廟湾と東龍洲の間の海峡にあたる。咸淳十年(1274)に作られたこの

石刻の碑文には、この地域に南堂と北堂といった二つの佛堂が存在し、何回も修繕が行われた

と記される。『嘉慶新安県志』によれば、佛堂門の南岸である東龍洲、つまり石刻に記載され

た南佛堂の所在地は島嶼である 7)。一方、北佛堂は佛堂門北岸の佛堂洲にある。佛堂洲はもと

もと東龍洲と同じく島嶼であったが、現在では埋め立てられて清水湾と隣接するようになった。

佛堂門という地域は山に囲まれた沿岸部であり、不便な陸路交通とは異なり、海上交通が発

達している。もし福建から出帆する船が広州を目的地とすれば、海岸線に沿って南西方向へ向

かい、佛堂門を通過して、そして現在のヴィクトリア海峡から大嶼山を経て珠江に入り、最後

に珠江を通って広州城に着く。つまり、佛堂門は福建・広州間を往来する商船が必ず通るとこ

ろであった。

碑文の内容に戻ると、まず人名の記載が確認できる。つまり何天覺、鄭廣清、念法明が三山

(福州の別称にあたる 8))から来た人物であり、辛道朴は泉州人と記されている。碑文の内容

から分かるように、福州出身の鄭廣清は南北の佛堂を修繕し、泉州出身の辛道朴は北佛堂に石

碑を建てた。仏堂を修繕するのは時間がかかり、そう簡単ではない工事である。修繕を行う人

たちは偶然にここに来たわけではなく、この辺で定住したはずであろう。この石刻は地元住民

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

の林道義によるものであり、彼は仏堂の重修を記念するのに、福州人の法明と一緒に作り上げ

た。前述した仏堂門の地理・交通状況に基づいて、福建系の人々が海路によってこの地域にやっ

て来て住民となったことが推測される。

また、石刻の所在地付近に現存する佛堂門天后廟をめぐって見ていこう。石刻に記載された

南北佛堂および佛堂の石塔はいずれも現存していないため、それらに関する具体的な歴史的変

遷、現存の佛堂門天后廟との関係性はもはや考証しがたい。天后という封号は清朝の康煕時期

に媽祖に加えたものである。ただし、「佛堂門」という呼称からすれば、ここの祭祀場所は当

初は佛教寺院であったものに、媽祖信仰があとから入ったことが考えられよう。

南宋期における媽祖信仰の伝播・展開に関する歴史的背景に基づくと、前述したこの地域に

来た福建系の人々は、媽祖信仰の伝播に決定的役割を果たした存在だと言えよう 9)。もしそう

であれば、佛堂門のこの辺は、媽祖信仰が珠江デルタ地域に伝わる最初の場所ではないかとい

うことも考えられる。

香港地域は宋代の沿岸部塩産地であり、開封から来た厳益章は「官是場」(この場を官する=

この塩場を監督する)という石碑の記載によれば、彼はここの官塩経営を行ったことが分か

る10)。佛堂門の西側には現在香港の大嶼山という島があり、慶元三年(1197)に塩の密造問題

をめぐって住民叛乱が起こった(文末の附図を参照)。この大奚島事件は、南宋期における南

海神信仰と媽祖信仰の関係性を検討するのに重要な手がかりとなる。

大奚山の島住民による反乱の起因は淳熙十年(1183)の私塩製造禁令に遡ることができる。

宋孝宗は詔を下して次の通りに述べる。

大奚山私鹽大盛、令廣東帥臣遞送節次已降指揮、常切督責彈壓官並澳長等、嚴行禁約、毋

得依前亭著巡亡等人販賣私鹽。如有違犯、除犯人依條施行外、仰本司將彈壓官並澳長船主

具申尚書省取旨施行、仍出榜曉諭 11)。

淳熙十年の禁令から十四年後の慶元三年(1197)、大奚山島住民の叛乱が起こった。当時広東

提挙塩茶公事の徐安国は、私塩販売者の捜査と逮捕にあたっていた。『両朝綱目備要』によれ

ば、

是夏、廣東提舉鹽茶徐安國遣人入島捕私鹽。島民不安、即嘯聚千餘人、入海爲盜、劫副彈

壓高登爲首、(cid:2)榜疏安國之罪、掠商旅、殺平民百三十餘人。經略使雷(cid:3)與安國素有隙。及

是安國乞遣兵討之、而(cid:3)則用錢酒醪以犒勞、且以安國生事聞於朝 12)。

徐安国の私塩販売者を捜査・逮捕する行為は地元住民の反発を招いた。反乱を起こした島住

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民は副弾圧官の高登を拉致した。その時、広東経略安撫使の雷(cid:2)は徐安国と仲が悪く、徐安国

の強硬的な鎮圧に対して雷(cid:2)は反対する態度を示していた。雷(cid:2)は徐安国と違って懐柔政策を

取りつつ、徐安国の失態を朝廷にも上奏した 13)。

朝廷側では検証を行ったあと、徐安国と雷(cid:2)を同時に免職して、銭之望を新任の広東経略安

撫使とした。『両朝綱目備要』によると、

詔、二人皆罷。…八月、庚辰、以軍器監錢之望為秘閣修撰知廣州 14)。

とある。銭之望が就任して最初に処理したのが、大奚山の反乱である。反乱を鎮圧する過程に

ついて、王象之の『輿地紀勝』に詳細な記述が見られる。

象之嘗聞(cid:3)之士友鄭岳云、岳曾作館於廣州。是歳、賊勢猖獗、福州有延祥寨水軍、海寇畏

之。錢帥申請于朝、乞差延祥將官商榮將兵以往。而大奚山之人、用木支格以釘海港、官軍

不知蹊徑、竟不能入。而島民盡用海舟載其弩、攻廣州。州兵敗止、乘潮達城下、州民散避。

賊會官船、水手者善跳船、與賊首之船遇、乃從檣竿上飛過、斫斷其帆索、帆墜、船不能進、

賊船遂亂。商榮因用火箭射之、賊遂大敗 15)。

王象之は、かつて広州の書院で講学する鄭岳という友人から当時の大奚山事件を知るように

なった。つまり、新たな広東経略安撫使である銭之望は、朝廷に対して福州の延寨水軍の援助

を求め、最終的に反乱の鎮圧を成し遂げた。王燕萍「宋代における媽祖信仰の実像」において、

大奚山の反乱事件とかかわる媽祖の顕霊が福建水軍と密接な関係を有すると提示される 16)。

福建水軍の到来は、この叛乱事件における媽祖信仰と南海神信仰の交差にとって重要なことで

ある。両信仰の交差を検討する前に、なぜ広東地域に起こった反乱と福建水軍がかかわりを持

つかについて、あらかじめ見ておく必要がある。

注意すべきは、福建水軍が最初からこの反乱事件に参与したわけではないことにある。最初

は広東水軍のみがこの事件を処理していたのは前述のとおりである。『宋会要輯稿』によれば、

慶元三年…十月二日、廣東提舉徐安國、經略雷(cid:2)各降一官、以諫議大夫姚愈言、安國信憑

告首私監(鹽)、輒遣林(cid:4)收捕。(cid:4)本海賊林文之子、趁勢報怨、入海劫掠、盜賊既作、殺

戮民旅、帥臣雷(cid:2)全無措施、但務辭招撫、賊徒知其畏懦、恣行殺掠 17)。

徐安国と雷(cid:2)を同時に免職した理由が述べられ、徐安国が林(cid:4)を派遣して私塩販売者の取締

を任ぜられたことが記される。林(cid:4)とは海寇林文の息子であり、広東水軍と島の反乱住民との

対立の中に、水軍を裏切って海寇側の味方をしたのである。こうした状況の中で、新任の広東

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

経略安撫使である銭之望はやむを得ず福建の延祥水軍に援助してもらうこととした。

大奚山の反乱事件と南海神信仰とのつながりは、銭之望による反乱平定とかかわっている。

南海神廟には「尚書省牒」という石刻が一件現存しており、この碑文には銭之望の上奏文も刻

み込まれており、その上奏文には、南海神が官兵を加護して叛乱を平定したという過程が記さ

れている。

臣領事之始、大奚小丑、阻兵陸梁、既逼逐延祥官兵、怙衆索戰。復焚蕩本山室廬、出海行

劫。臣即為文、以告於神。願借檣風、助順討逆、獻俘祠下、明正典刑、毋使竄逸、以稽天

誅。然後分遣摧鋒水軍前去會合。神誘其衷、既出佛堂門外洋、復回舟送死、直欲趨州城。

十月二十三日、至東南道扶胥口東廟前海中、四十餘艘銜尾而進、興官兵遇。軍士爭先奮(cid:2)、

呼王之號以乞靈。戰鬥數合、因風縱火、遂焚其舟、潮(cid:3)(cid:4)落、徐紹(cid:5)所乘大舶、膠於沙磧

之上。首被擒獲、餘悉奔潰。曁諸軍深入大洋、招捕餘黨。如東薑段門諸山、素號險惡、或

遇颶風(cid:6)發、不容艤舟、人皆危之。既至其處、波伏不興。及已羅致首惡、則長風送(cid:7)、巨

浪如屋、武夫奮掉、且喜且愕、益仰王之威靈 18)。

碑文の記載によれば、広東の地方官員は叛乱が発生した時南海神に祈願してから、広東の摧

鋒水師を派遣して叛乱軍と交戦させた。交戦する間に、南海神は顕霊して、叛乱軍に佛堂門の

水域から珠江の入り口へと突き進ませて、広州城まで進出させた。結局、叛乱軍は南海神廟前

の扶胥口に着いたとたん、官兵に撃破された。

注目すべきは、この反乱事件をめぐって、南海神廟に置かれた石刻と前引の『輿地紀勝』と

は異なる記述が見られることである。『輿地紀勝』に記された内容は、王象之が友人を経由し

て得た情報に基づいて書き上げたものであるが、単に事件に関する記述という立場から記され

たものであることが確認できる。しかも、『輿地紀勝』における関連記述は、大奚山の反乱事

件が起こってまもなく出来上がったこともあり、そこから事件の真相と詳細を窺うことが有効

であると考えられる。もし『輿地紀勝』に記された内容がより真実に近づいていることを前提

にすれば、銭之望による叙述には南海神の顕霊を強調するという物語性を持っており、史実の

ディーテルにも改編を行ったこととなる。

両者の叙述を比較すると、三つの注目点が挙げられる。

まず、上述の『輿地紀勝』によれば、広東側の水軍に反乱を鎮圧した人たちが寝返ってしまっ

たため、銭之望は福建水軍の援助を求めた。しかし、それに対して、南海神廟の石刻には反乱

軍が陸梁というところで官兵を阻んだ(「阻兵陸梁」)後、延祥の官兵を追っていった(「逼逐

延祥官兵」)とある。ちなみに、陸梁とは広東の別称である。ここで銭之望は広東で起こった

叛乱が延祥水軍とかかわったことを述べていない。逆に、反乱軍は人数の優勢で戦闘を挑発し

て(「怙衆索戰」)、先に福建水軍に宣戦布告をしたと述べつつ、つまり、銭之望は、自分が福

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振 康

建水軍の援助を求めようと朝廷に上奏したことを、意図的に隠そうとする。福建水軍の力を借

りて反乱を平定したということを、反乱軍が福建水軍を挑発してから事件が起こった、と捏造

する。

もう一つは、上述した仏堂の地理状況に基づき、福建水軍が福建から大奚山に着いて反乱を

平定するルートの、東から西へと海を渡って、佛堂門を通して大奚山に到着したことが確認で

きる(文末の附図を参照)。銭之望の記述によれば、反乱軍は西から東へと佛堂門を通って外

洋まで至って、そこから珠江デルタ海域に戻った。それは、反乱軍が福建水軍と海域で遭遇し

てやむを得ず戻った、という可能性が高い。しかし、銭之望はそれについて、南海神の霊験に

よって反乱軍に船を戻させて自ら網にかかった(「回舟送死」)と解釈した。

最後は、反乱軍と決戦する場面についてである。『輿地紀勝』によれば、反乱軍は広州を攻

略する際に、城下まで攻めて、広州の民衆を避難させた。そのため広東の官兵は反乱軍と決戦

する場所を広州城に隣接する海域にした。一方、銭之望の上奏文では、決戦の場所が広州城の

東側八〇里外の南海神廟湾とした。つまり、南海神の霊験故事を利用することにより、反乱軍

に城下まで攻められて、広州城の民衆たちに被害が及んだ事実を巧妙に隠蔽したのである。南

海神廟に向かい合う海域で決戦するストーリーの信憑性を増すため、広東の官兵たちは南海神

に祈願した後、風や潮の吹く勢いが官兵側に有利な方向へ向かった点も強調された。『輿地紀

勝』には、商栄に率いられた福建水軍も最後の決戦に参戦したことが記される。恐らく広東水

軍と福建水軍とが会合したあと、商栄らが火の矢で反乱軍を撃破して勝利を取ったとする。し

かし、銭之望は、単に風の勢いを利用して火を放つ(「因風縱火」)と省略している。

要するに、銭之望の記述には、二つの特徴が含まれている。一つは福建水軍の役割を無視し

ながら、自分が主導した広東(cid:2)鋒水軍の功績を強調すること、もう一つは反乱平定における南

海神の霊験の事跡を加えたことである。

ただし、南海神が大奚山の反乱事件で霊験を発揮した事跡は、銭之望一人の創作ではない。

なぜなら、彼は危急存亡の際に広州に赴いて経略安撫使に就任した官員であり、広州当地の信

仰に特別な感情や理解があるはずはないからである。もっとも蓋然性が高いのは、広州当地の

軍民たちは南海神を信仰する伝統を持っており、霊験の伝説が最初に広東水軍の間に伝えられ

ていた。今回反乱平定の指導者にあたる銭之望は、関連の伝説を整理して石刻に書き込んだ。

彼の目的について、二点ほど推測できる。第一は、就任したばかりの地方官員として、彼は当

地の信仰に積極的な対応を行ったことである。第二は、銭之望は南海神の霊験を利用して、福

建水軍の実際に果たした役割を薄めようとしつつ、自分が率いた広東水軍が反乱平定において

決定的な役割を果たしたとアピールする思惑があったことである。後に銭之望はこの反乱事件

を南海神の霊験の事跡と一緒に朝廷に報告した。銭之望は南海神が叛乱を平定するのに役に立っ

たとみなし、広東の官員はこぞって朝廷に南海神を褒賞する願書を呈上していた。封額を許可

する「尚書省牒」には次の通り述べられる。

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

後批送部勘當、申尚書省。尋行下太常寺勘當去後、據申、照得上件神祠、係五嶽四海四(cid:2)

之神、兼上件靈應、並是助國護民、盪除兇寇、比尋常神祠靈應不同、所有陳乞廟額、本部

尋再行下太常寺擬封去後、據申、今將南海洪聖廣利昭順威顯王廟、合擬賜額降敕。伏乞省

部備申朝廷、取旨施行。伏候指揮。牒奉敕、宜賜英護廟為額。牒至准敕。故牒 19)。

この牒文から、朝廷は南海神廟に「英護廟」の扁額を賜ったことが分かる。また牒文によれ

ば、南海神は嶽鎮海(cid:2)の体系に連なる神であるため、国と民衆を庇護する上で「尋常の神祠よ

りその霊験が異なる」といわれる。すなわち、朝廷はこの事件における南海神の霊験に基づき

表彰を行った。

しかし、南海神がこの叛乱事件で顕霊したという物語以外に、南宋期には媽祖が叛乱平定で

顕霊したという伝説も存在する。南宋期の丁伯桂は「順濟聖妃廟記」には、

慶元戊午、甌(cid:3)列郡苦雨、(cid:4)三邑有請於神、獲開霽、歳事以豐。朝家調發(cid:3)禺舟師、平大

奚寇、神著厥靈、霧瘴四塞、我明彼晦、一掃而滅。開禧丙寅、金寇淮甸、郡遣戍兵載神香

火以行、一戰花黶鎮、再戰紫金山、三戰解合肥之圍、神以身現雲中著旗幟、軍士勇張、凱

奏以還。(cid:4)之水市、朔風彌旬、南舟不至、神爲反風、人免艱食。海寇入境、將掠郷井、神

爲膠舟、悉就擒獲。積此靈(cid:5)、郡國部使者陸續奏聞、慶元四年加「助順」之號。嘉定元年、

加「顯衛」之號。十年、加「英烈」之號 20)。

とあり、媽祖が大奚山叛乱に顕霊したという事跡、および後の南宋中後期に授与したそれぞれ

の封号について述べられる。この記述は南宋期に成立したので、その信憑性が高いと言える。

この記述に関して、古林森廣氏は次の点を指摘する。つまり、大奚山叛乱において、媽祖と南

海神両方も顕霊したとは言え、「南海神と天妃との夫々の関係記事の間に矛盾が見られる 21)」

という。さらに、なぜ朝廷が媽祖に「助順」という封号を賜ったかに関して、氏によれば、叛

乱を平定したのは「(cid:3)禺舟師」つまり福建と広東の水軍両方の功績であり、媽祖を信仰する福

建水軍が媽祖顕霊の事跡を朝廷に進言したため、朝廷は南海神廟に扁額を賜うと同時に媽祖に

も封号を与えた、という。

古林氏のこうした判断は、媽祖が数回封号を授与されたという記述に基づいたと考えられる。

この記述には以下の媽祖顕霊の事跡五件が記されている。それは、慶元四年に福建地域の豪雨

災害を止めたこと、大奚山叛乱を平定したこと、開禧二年金国侵入を撃退したこと、(cid:4)田に入

港する船を安全に迎え入れたこと、海賊を退治したこと、である。さらに、「助順」「顯衛」

「英烈」という三つの封号が与えられたが、ほかの勅文によれば、金国侵入を撃退したため、

媽祖が「顯衛」と封号され、「助順」という封号が加えられたのは、金国の侵入前に顕霊した

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振 康

二つの事跡とかかわると考えられる。

また、元代の程端学は『積齋集』の「靈濟廟事跡記」において、

紹熙三年、特封靈惠妃。慶元四年、甌(cid:2)諸郡苦雨、惟(cid:3)三邑(cid:4)之、霽、且有年、封靈惠助

順妃。時方發(cid:2)禺舟師平大奚寇、神復效靈、我明彼暗、賊悉掃滅 22)。

媽祖が大奚山叛乱を平定する際に顕霊した事跡、および後に「助順」の封号が加えられたこと

を述べている。大奚山叛乱は慶元三年に起こったが、「助順」を加封したのは翌年の慶元四年

であるため、媽祖の「助順」加封をこの顕霊事跡と連想させるのだろう。

ただし、古林氏のこうした判断は再考する余地がある。なぜなら、氏の指摘した媽祖と南海

神との同時顕霊に矛盾が存在していないのは、朝廷が大奚山叛乱の件で南海神と媽祖を同時に

褒賞していなかったからである。『咸淳臨安志』には媽祖を「助順」と封じる理由が明確に記

されている。

慶元四年加封助順、勅曰・・・靈惠妃宅於白湖、福此(cid:2)粤、雨(cid:5)稍愆、靡所不應、朕惟望

舒耀魄、其名月妃。川祗靜波、其名江妃。爾之封爵、既曰妃矣。增錫美號、被之綸渙、崇

大褒顯、凡以為民、尚體異恩、以永厥祀 23)。

この史料からすれば、慶元四年に媽祖が「助順」と加封されたのは(cid:2)粤地域に風雨順調を与え

た功にある。それは「順濟聖妃廟記」に媽祖が福建地域の豪雨災害を解消する記録と対応する。

しかしこの文には大奚山叛乱の顕霊は言及されていない。

さらに、媽祖の封号「助順」「顯衛」「英烈」を分析すれば、金国の軍隊を撃退したため獲得

した「顯衛」、海賊を退治したため獲得した「英烈」の「衛」「英」「烈」の字はすべて戦闘と

つながる意味を持つ。一方、「助順」の二字には、戦争と関係なく「風調雨順」の意味が含ま

れる。従って、朝廷による媽祖への「助順」加封は大奚山叛乱事件の平定と関係がないと考え

られる。

では、「順濟聖妃廟記」と「靈濟廟事跡記」における記載はどのように説明すればよいのか。

大奚山の反乱事件が平定された後、官兵側による大勢の島住民の殺害といった苛烈な状況があ

るため、朝廷からすれば、この事件が媽祖の加封理由として考えられないと徐暁望氏は、指摘

する 24)。王元林氏によれば、それは民間伝説における付会の言にあたるものとして捉えられ

ている 25)。実際、「順濟聖妃廟記」にせよ「靈濟廟事跡記」にせよ、いずれも媽祖の大奚山叛

乱顕霊と「助順」加封との間に明確な関係性を持つことを語っていないのである。まず、「順

濟聖妃廟記」における五つの顕霊事跡は必ずしも朝廷による冊封の理由ではない。たとえば四

番目の功績つまり(cid:3)田に入港する船を安全に迎え入れたことは、「靈濟廟事跡記」には記載さ

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

れていない。「靈濟廟事跡記」にそれと対応しているのは嘉定十年に旱災を緩和するため媽祖

が降水させた事項である。こうしてみると、「順濟聖妃廟記」には媽祖の大奚山叛乱顕霊が単

に数回の顕霊事跡の一つとして挙げられたと言えよう。それに対し、「靈濟廟事跡記」ではた

だ「時方發(cid:2)禺舟師平大奚寇」(当時福建と広東の水軍が大奚山の匪賊を平定する事件は発生

したばかりだ)とだけ言及した。すなわち、「靈濟廟事跡記」に限って言えば、媽祖が「助順」

の封号を受け入れた時期には、ちょうど大奚山叛乱があっただけで、大奚山叛乱に媽祖が顕霊

したというのは「助順」封号の冊封と無関係だと見なしてもよい。

大奚山叛乱を平定する事件において、広東摧鋒軍水師と福建水師を同時に出動させており、

広東側は南海神で、福建側は媽祖と両水軍の信仰対象は異なるため、叛乱を平定する際に顕霊

した海神もそれぞれ描かれた。すなわち、南海神と媽祖の両方の信仰においても大奚山叛乱顕

霊に関連する記載が出現したことについてその論理が通じる。他方、この事件は広東で起こり、

主な対応者は広東の官員であったため、その祈願対象も南海神となり、最終的に朝廷に認可さ

れたのは南海神の顕霊事跡のみであった。一方、宋元時代には、媽祖の大奚山叛乱顕霊に関す

る記載においてこの事件と加封との関係は一切言及されていない。それについての先行研究は

再検討される必要があるように思われる。明清以降、媽祖がこの大奚山叛乱顕霊で朝廷に冊封

されるといったような記載があらわれるが、それは媽祖信仰が展開していくなか、それが後世

に加えられたと考えられる。

総じて言えば、大奚山の反乱事件は南海神と媽祖の両方の顕霊事跡が出現するが、両者には

著しく異なる特徴が見られる。南海神の霊験伝説は、事件発生の時点ですでに成立した。さら

にその整理された伝説は朝廷にも認められており、広州の南海神廟に石碑も立てられており、

珠江デルタ地域と密接にかかわっている。その一方、媽祖の霊験伝説は主に福建水軍経由で伝

わり、その成立時間も必ずしも事件発生当時ではなく、珠江デルタ地域の大奚山の反乱事件と

かかわっていたとはいえ、伝説自体は広東の軍民とあまり関係していないとみなすことができ

る。

2)広州城の信仰空間をめぐる媽祖信仰と南海神信仰の交差

南宋期における媽祖信仰と南海神信仰との珠江デルタ地域での重要な交差は、デルタ地域の

中心地である広州城で現れた。南海神廟の所在地である広州城には、南宋期から媽祖を祭る廟

宇が立てられるようになり、広州城の信仰空間といった側面で両者が交差する基礎が出来上がっ

た。

信仰空間とは、廟宇などの祭祀場所という具体的な空間以外に、信者の存在空間および信仰

の影響範囲、信仰の発展規模などの要素も考える必要がある。南宋期から広州に伝わってきた

媽祖信仰は、広州城で新たな信仰空間を開いたと言ってもよかろう。信仰空間における南海神

85

振 康

と媽祖との交差を検討する前に、まず、広州城の固有信仰である南海神について、その信仰空

間を確認しておこう。

隋代までその成立がさかのぼれる広州の南海神廟は、広州城の東側八十里に離れた扶胥港に

位置しており、城内に設けられたわけではない。当初は、朝廷によって設置された嶽鎮海(cid:2)の

祭祀場所であり、当該地域の民衆たちとの関係性が薄かった。地元住民が南海神廟に参拝する

のは後のことであり、南海神信仰が当該地域で受容されるにも一定の時間を要した。北宋に入

ると、民衆たちが次第に参拝するようになった南海神廟が、広州城と遠く離れるという地理的

不便が顕在化したため、広州城内にも南海神廟をもう一つ建てるようになった。新たに建てら

れた南海神廟は地元住民にとって参拝しやすい場所となったため、広州城内に南海神を祭る最

も重要な空間ともなった。

一方、広州城内の最初の媽祖廟について、目下のところ、その成立に関する記述が見当たら

ない。広州城に媽祖廟があるという言及は、祝穆の『方輿勝覧』に初めて見える。

東廟在州東、即南海王廟。西廟去城十五里、蓋敕封靈惠助順顯衛妃行祠也 26)。

『方輿勝覧』に記載されるについては、後ほどその詳細を検討することとし、その詳細をみる

が、その前に、広州城にある媽祖廟の建立時期について見ておこう。祝穆は「霊恵助順顕衛妃」

を媽祖と呼ぶ。こうした封号は、嘉定十年(1217)の媽祖「英烈」という封号の前に承ったも

のであるため 27)、広州城の媽祖廟は嘉定十年(1217)の前に出来上がったと考えられる。

現存史料からみれば、最初に広州城の媽祖廟に参拝した確認できる著名人は、嘉煕三年

(1239)に広州に提挙常平司として赴任した劉克荘である。広州に赴任したその年、彼は広州

の媽祖廟を参詣して、「聖妃廟」という祭文を書いた。

また、南宋期の方信孺による『南海百詠』には、広州城内とその周辺にある名勝が記され、

自分の書いた詩文も加えている。『南海百詠』の成立時期は慶元元年(1195)28)だと言われる

が、そのなかに媽祖廟に関する記述は見当たらない。しかも、方信孺が媽祖信仰の発祥地福建

(cid:3)田出身であるため、もし当時広州城内に媽祖廟が存在したならば、彼に無視されるはずがな

い。以上の理由から、方信孺が『南海百詠』を書く時には、広州城内にまだ媽祖廟が建てられ

なかったと考えられる 29)。劉克荘が「聖妃廟」を書き上げた嘉煕三年(1239)に成立した

『方輿勝覧』には、媽祖の封号に関する記載は省略があるかもしれないから、上記の三つの

記述から、広州城の媽祖廟についてその成立時間帯は、慶元元年(1195)以降から嘉定十年

(1217)にかけて、少なくとも嘉煕三年(1239)までと推測できよう。

上述のように、最初に広州の媽祖廟を訪れて記録を残したと考えられるのは劉克荘である。

彼の記述は、広州城内で媽祖信仰と南海神信仰の発展を考察するのに最も重要なものとなる。

86

宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

劉克荘は、福建の(cid:2)田出身で、嘉煕三年(1239)に広州に提挙常平司として赴任した。彼の故

郷(cid:2)田は媽祖信仰の発祥地である。彼は広州に赴任した後、広州を本拠地として展開していた

南海神信仰と接触し始めた。そのため、媽祖信仰と南海神信仰の両方が広州でいかに展開した

かについて理解するのに、劉克荘をキーパーソンとして検討したい。

劉克荘は、広州にあるさまざまな「神祠」「廟宇」を訪れている。南海神廟と媽祖廟に参拝

したあと、それぞれの祈祷文を一通ずつ書いている。彼が書いた「聖妃廟」において、広州城

の媽祖信仰について次のように述べる。

某持節至廣、廣人事妃、無異於(cid:2)、蓋妃之威靈遠矣。某妃邑子也、屬時多虞、惕然恐懼、

妃其顕扶(cid:3)相、使某上不辱君命、下不貽親憂、它日有以見魯衛之士、妃之賜也、敢告 30)。

ここでは、劉克荘は自分が(cid:2)田出身であり、媽祖の「邑子」と自称する。(cid:2)田出身の自分の庇

護を媽祖に祈願して、広州での出世についても願いを出した。

劉克荘によれば、当時の広州には媽祖信仰の規模がすでに「廣人事妃、無異於(cid:2)」(広州の

人々が天妃を祭祀するのは、(cid:2)田と同じだ)と言う。いままで南宋期の広州地域における媽祖

信仰の研究では、一般的に劉克荘の記述を引用して、当時媽祖信仰がすでに広州城で流行して

いたことを無批判に指摘する。しかしながら、南宋期の広州地域における媽祖信仰に関する史

料はさほど多くないため、劉克荘の叙述によって当該期確かに広州城に媽祖廟が存在していた

ことが認められる以外に、広がりについては、他の史料を用いて論証するのはなかなか難しい。

そのため、劉克荘のこうした描写には、もっと慎重に見直す必要がある。

まず、劉克荘における媽祖と南海神への態度の差異から見ておこう。南海神廟を訪れてから、

彼は「謁南海廣利王廟」を書いた。

某昔者讀祭禮而知海之尊、讀韓碑而知神之靈、茲以使事、舟出祠下、瓣香巵酒、徼福于神、

維粤之南、去天尤遠、民生今日凋弊可哀、某當推君之澤、而致之民、神當爲民請命于帝、

庶幾田里之内、愁歎小寬、嶺海之間、(cid:4)害不作、既矢諸心、復質諸神 31)。

ここには南海神についての認識が書かれており、つまり嶽鎮海(cid:5)とかかわる礼制を通して南

海神を知るようになり、さらに広州城に着いたあと、韓愈による南海神廟の碑文を読んで、南

海神をより詳しく理解するようになった、ということである。広州に来る前に、劉克荘の南海

神への認識は国家祭祀のレベルにとどまっていたといってもよかろう。彼は南海神の広州にお

ける位置づけを知るようになってから、船に乗って南海神廟を参拝したようである。南海神を

軽視するのではないものの、媽祖の祈祷文の内容と対比すると、劉克荘における両者への評価

の差異は明らかである。なぜなら、媽祖に関する祈祷文には、プライベートのことを中心とし

87

振 康

つつ、自分の出身であり、媽祖の発祥地でもある(cid:2)田を強調しており、自分が媽祖の息子「邑

子」とまで自称したからである。さらに、最後には広州で役職を担っていた自分が順調に官位

を進めるように庇護を願う。自分の仕途がうまく進み、「魯衛の士」にかなうことを祈ってい

る。「『論語』子路篇」の「魯衛之政、兄弟也」を典拠とするこの「魯衛の士」は(cid:2)田にある

同郷の親戚などを指すのであろう。ここから、劉克荘の媽祖への祈願は、個人的事情と故郷の

(cid:2)田をめぐるものだと確認される。

一方で、南海神への祈願は広州当地の社会的安定と民生に関わっている。広州は朝廷から遠

く、当地の人々の生計の不況を案じて、それについて南海神に祈願した。なお、劉克荘は自ら

の境遇を南海神になぞらえている。つまり、自分が嶺南地域に役職を背負って、当地の百姓に

中央にある皇帝の恩沢を感じさせたいが、それと同じように、南海神も嶺南地域の百姓に「請

命于帝」(皇帝に使命を請ける)べきだと述べる。換言すると、劉克荘は南海神を嶺南地域の

一帯を守るとして見なしているため、その祈願する内容も嶺南地域の百姓とかかわるものにし

た。

広州で役職を担う劉克荘は、提挙常平司の後、まもなく転運司に改任した。転運司と提挙常

平司は宋代の地方で設置された「帥司・漕司・憲司・倉司」といった四つの監司に属する。転

運司はすなわち漕司であり、地方財政を掌る。提挙常平司はすなわち倉司であり、倉庫を管理

する。転運使は提挙常平司よりその責任が重大であるため、提挙常平司から転運司に転任する

のは、昇進するという意味を持つ。今回の昇進が、諸々の神に庇護された結果だと思った劉克

荘は、その後広州のさまざまな神祠を訪れ、各々の神に感謝の気持ちを表わした。その際に、

南海神廟と媽祖廟にそれぞれ祈祷文を残した。もう一通の「聖妃廟」において、

某由(cid:3)及漕、見謂驟遷、豈上之加惠於遠臣歟、抑神之實私於邑子歟、方今軍無宿儲、民苦

貴糴、脱有敗缺、將為神羞、神既隲其始、必成其終、視事之初、敬奉瓣香、以謁 32)。

とあり、出世したことに対して媽祖に感謝の意をあらわした劉克荘は、自分が(cid:2)田出身であり

媽祖の「邑子」として見守られ、「驟遷」(早い昇進)がなかったと述べる。「南海廟」には以

下のようにある。

某春持(cid:3)節、秋視漕印、或者榮之、某實懼焉、靜觀土風、(cid:4)察時事、可憂可愕、有非人力

所能爲者、此某之所以齋心服形、徼福於神也 33)。

この祭文はその基調が「聖妃廟」と異なる。ここで劉克荘は自分の広東就任について憂鬱さを

あらわしており、広東の習俗が特殊であるため統治難度が高く、さらに「有非人力所能為者」

(人の力ではうまく統治できないところがある)と述べる。つまり、南海神に力を借りて自分

88

宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

の及ばない嶺南地域を守護するようにと劉克荘は願っている。

要するに、劉克荘からみれば、媽祖と南海神とは相当異なる存在である。南海神を信仰する

際に、劉克荘は嶺南地域を保護する神と見なしていたが、媽祖に対してはプライベートのみ打

ち明けて、嶺南地域にはいっさい言及しておらず、媽祖に嶺南地域を守ることは願っていない。

つまり、劉克荘の考えでは、嶺南地域を守る南海神に対して、媽祖は単に「邑子」の自分だけ

を守る存在である。そうとすれば、上述の「広人事妃、無異於(cid:2)」という記述にも、疑問が生

じてこよう。地元住民も媽祖を崇拝するようになっていたのなら、なぜ劉克荘は、媽祖に対す

る祈願の中に、媽祖信仰の信者としての地元住民を庇護するような願いを言わなかったのであ

ろう。もう一つの可能性は、当時広州城に媽祖を祭るのは福建から来た人々に限られていたと

ころにある。福建地方の特性を持つ媽祖は、劉克荘にとって、故郷の関係性で捉えていたと考

えられる。広州城における媽祖廟の成立時期をさらに取り上げてみると、『南海百詠』の成立

から劉克荘の広州赴任にかけて、四十年あまりしかなかった。短時間で、媽祖信仰は広州城内

に廟宇がない状態から地元住民が(cid:2)田人のように崇拝する状態へと変わった可能性は低い。劉

克荘によるこうした叙述は、克荘自身が出身であり、媽祖信仰の影響力を誇示しようとする思

惑からできたものだと考えられる。

また元代の『湖海新聞夷堅續誌』には「崇福夫人神兵」があり、そこから媽祖信仰が広州城

へ伝播する過程において、海商の果たした役割が読み取れる。

廣州城南五里、有崇福無極夫人廟。碧瓦朱甍、廟貌雄壯。南川往來、無不乞靈於此。廟之

後宮、繪畫夫人梳裝之像、如鸞鏡・鳳釵・龍巾・象櫛・床帳・衣服・金銀器皿・珠玉異寶、

堆積滿前、皆海商所獻、各有庫藏收掌。凡販海之人、能就廟祈(cid:3)、許以錢本借貸者、縱遇

風濤而不害、獲利亦不貲。廟有出納二庫掌之。船有遇風險者、遙呼告神、若有火輪到船旋

繞、縱險亦不必憂。凡過廟祈(cid:4)者、無不各生敬心 34)。

崇福無極夫人廟とは媽祖廟である。この記載によれば、媽祖廟へ参拝しにきたのは、主に

「南川」で往来している人々である。南川とは、広州城の南側にある珠江である。海商たちが

広州城に入るのに必ず珠江を経由すると考えられる。のちにも述べられるように、この媽祖廟

での貢物は「皆海商所獻」(みな海商よりに献上された)ため、この媽祖廟を祭るのは広州城

にきた海商であると考えられる。つまり、元代に入ると、広州城の城内にある媽祖廟で祈祷す

るのは依然として海商に限っていた。いわゆる海商とは福建から来た商人だけでなく、広州の

地元商人も含まれる。ただし、広州の地元海商には媽祖を信仰する人が現れたといっても、彼

らは広州城の住民のごく一部でしかいなかった 35)。言い換えれば、元代に至っても、広州城

には「廣人事妃、無異於(cid:2)」といった状況は見当たらなかった。

89

振 康

続いて、南海神信仰と媽祖信仰という両者の祭祀空間について、広州城に焦点を当てて検討

してみる。広州城の祭祀場所において、両者は興味深い交差ができた。

上記の『方輿勝覧』には、祝穆は広州の南海神廟について、

東廟在州東、即南海王廟。西廟去城十五里、蓋敕封靈惠助順顯衛妃行祠也 36)。

とあり、南海神西廟が媽祖の「行祠」でもあると記る。それについて、先行研究は議論が分か

れている 37)。作者である祝穆は広州に行ったことがないため、確かに慎重な扱いが必要であ

る。南海神西廟は同時に媽祖廟でもあり、つまり南海神と媽祖といった両神がこの廟で合祀さ

れると祝穆は言う。しかし、劉克荘の祭文には、媽祖と南海神の合祀は言及されていない。劉

克荘は自ら南海神廟に参詣したことがあるため、その叙述は正確であろう。また、『即事十首』

には、

東廟小兒隊、南風大賈船。不知今廣市、何似古揚州 38)。

とある。劉克莊に、東廟を「扶胥口の南海神廟」と呼ぶ意識があるとすれば、南海神廟に東西

二廟があると知っていたのであろう。そのため、もし南海神西廟に媽祖を同時に祭るのであれ

ば、彼はそれを無視するはずがない。とすれば、『方輿勝覧』に書かれる南海神西廟が媽祖廟

そのものだという記事は疑わしい。祝穆の記述は誤記であると単純に判断することはできない

が、なぜそういう誤記が生じたかについては検討するに値する。

上述した通り、北宋期には、広州城内に南海神の西廟が建立された。しかしながら、西廟の

位置について、異なる説明が存在する。西廟の建立について最初の位置は、城の南にある。し

かし、方信孺の『南海百詠』には次のような記述がある。

在郡東南水陸(cid:2)八十里扶胥之口、蓋四(cid:3)之一也、廟中有波羅蜜樹・銅鼓及韓退之所作記唐

開元中祭文等碑。又有西廟、在城西五里 39)。

方信孺が自ら広州を遍歴してから書いた『南海百詠』の信憑性が高いとすれば、西廟が城から

離れた西側の五里にあることも視野に入れなければならない。しかも、清代まで存続する西廟

は記された位置と合致する。つまり、方信孺の時期から西廟の場所は変わっていない。ただし、

その前に広州城の南から西へと変更した可能性がある 40)。

また『方輿勝覧』に戻ると、西廟が城から十五里離れた所にあるといった離れたといった記

述は上にあげたほかの史料とは異なる。『方輿勝覧』の十五里は、五里の誤記ではないかと考

えられる。

90

宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

他方、『方輿勝覧』にある「南海神西廟が媽祖の行祠でもある」といった記述をいかに考え

たらよいか。ほかの関連史料がないため、それは作者の誤記か、あるいは何らかの理由があっ

たことが考えられる。

史料がかぎられたため、この問題について有力な考証を出来かねる。しかし一方、史料で残

された手がかりが用いられると考えられる。宋元時期には、広州の南海神廟と媽祖廟に関する

史料において、いずれも廟内に銅鼓があるという記述が見当たるため、こうした銅鼓を手がか

りに、宋代広州における南海神廟と媽祖廟の関係性をめぐって検討を行う 41)。

銅鼓とは主に古代の嶺南地域でみられる楽器であって、もともと「(cid:2)人」という蛮族に使わ

れるものだとされる 42)。宋人の周去非は広南西路の職を担う間に、広西の俗習風土の見聞を

もとに、『嶺外代答』を著した。そこには広西地域における銅鼓についての俗習が述べられる。

廣西土中銅鼓、耕者(cid:3)得之、其制正圓、而平其面、曲其腰、(cid:4)若(cid:5)籃、又類宣座、面有五

蟾、分據其上、蟾皆累蹲、一大一小相負也。周圍款識、其圓紋為古錢、其方紋如織簟、或

為人形、或如(cid:6)璧、或尖如浮屠、如玉林、或斜如豕牙、如鹿耳、各以其環成章。合其(cid:7)紋、

大類細畫圓陣之形。工巧微密、可以玩好。銅鼓大者闊七尺、小者三尺、所在神祠佛寺皆有

之。州縣用以為更點。交趾嘗私買以歸、復埋於山、未知其何意也 43)。

つまり、銅鼓の由来について、農田から発見されたその銅鼓は、遠い昔から何らかの理由で

「(cid:2)人」に遺棄されたものだと考えられる。しかし、前文の記述には、それらの銅鼓が「(cid:2)人」

のものだとは言及せず、ただ当該期の広西地域には寺や祠堂などのところに銅鼓が置かれ、当

地の州県などの役人が銅鼓を叩くによって時間を報告するという習慣があるという。ここでい

う「神祠」「仏寺」は「(cid:2)人」の祭祀場所に当たらないため、そうした行事は漢人の信者によっ

て行われると考えられる。また、銅鼓を叩いて時間を報告する州県などの役人も漢人に違いな

い。要するに、銅鼓は、土の中から掘り出された後、当地の漢人たちに利用されてさらに固有

の伝統として保ち続けられてきたと言えよう。この時、銅鼓の利用者は、すでに「(cid:2)人」とい

う枠組みを超え、漢人も含むようになった。

なお、『嶺外代答』に言及された「交趾」とは、つまり当地の「(cid:2)人」である。そうした

「(cid:2)人」はときどき漢人からひそかに銅鼓を買い込み、また山の奥に埋める。こうしてみれば、

おそらく彼らに銅鼓を使用する慣習が依然として残っており、神力を持つものとして尊んでい

たことと推測される。一方、銅鼓を叩いて時間を知るという漢人の使い方には、銅鼓への冒(cid:8)

となる恐れがあるため、「(cid:2)人」は漢人が利用できないように銅鼓を山の奥に埋めたと言われ

る。ここでは、「(cid:2)人」と漢人との間には、銅鼓を使用する慣習が明らかに異なっている。換

言すれば、「(cid:2)人」社会に由来する器物だった銅鼓は、だんだん遺棄されたりボロボロになっ

たりしてさらに土中に埋められたが、また漢人に掘り出されてから、再利用されるようになり、

91

振 康

漢人の祭祀場所「神祠」「仏寺」に置かれたり、地方の役人に時間報告の道具として使われた

りして、それによって、漢人社会に銅鼓にかかわる新たな伝統が流行っていくようになる。

『嶺外代答』は主に宋代の広西地域を対象とするが、嶺南地域の習俗が近いため、当該期広

州地区の状況はそれと関連付けて考えてもよいと思われる。広州の南海神廟に銅鼓が現われる

のは、『嶺外代答』にある「所在神祠佛寺皆有之」(「神祠」と「仏寺」のすべてにはみなこれ

がある)といった宋代の嶺南地域の習俗に合致する。

南海神廟にある銅鼓は、宋代の方信孺による『南海百詠』から窺われる 44)。方信孺は広州

に滞在していた期間、各地の名勝で詩文を作り『南海百詠』を集成した。詩文の冒頭部分でそ

の名勝について紹介を加えているため、宋代広州の歴史研究の重要な史料として扱われる。な

かには「南海廟」と「銅鼓」が収録されており、当該期の広州銅鼓について言及する。方信孺

「銅鼓」における南海神廟の銅鼓についての記述に目を向けると、

南海東西廟皆有之。東廟者、徑至五尺五寸、高有其半、俗謂洪聖王舊物。蔡如松作「懷古

詩」嘗辨之云、銅鼓之説、出於「隋書●南夷傳」。夷人酋長好鑄銅鼓、有事鼓、夷人盡集、

女子首飾盡戴銀釵、取釵(cid:2)鼓。蔡之説止於此、殊不知虞喜「志林」已載。建武二十四年、

南郡男子獻銅鼓、有銘。又後漢書馬援好騎射、善別名馬、征交趾、得駱越銅鼓、乃鑄為馬

式、以進。則知銅鼓在後漢光武時、已為希得、所以有南郡之獻、非止見於隋時也。今廟中

之鼓、自唐以來有之、番禺志已載、其制度、凡春秋享祀、必雜(cid:3)樂(cid:2)之以侑神。又府之武

庫、亦有其二。其一蓋唐僖宗朝、鄭續鎮番禺日、高州太守林藹所獻。初因郷墅小兒、見鳴

蛙之怪、遂得於蠻酋大塚中、事見嶺表異(cid:4)。在唐時既能為怪、則至今不知其幾百年物矣。

鼓形如腰鼓、而一頭有面、製作精巧、所謂銘志、絶無有也。只周遭多鑄蝦蟆、兩兩相對、

不知其何意 45)。

南海神廟にある銅鼓の来歴について、方信孺はすでに『番禺志』にもとづいて記述をしてい

るが、現時点では、それが具体的にどの『番禺志』であるか特定できない。方信孺の記述によ

ると、広州の銅鼓は四個ある。南海神廟の東西二廟にそれぞれ一個存在する。南海神祭祀は春・

秋に設けられており、南海神の庇護を感謝するにあたって東廟の銅鼓を叩く。しかし、南海神

祭祀は嶽鎮海(cid:5)祭祀体系に属しており、その祭祀のやり方がほかの三海神とほぼ一緒であるは

ずだが、南海神東廟に銅鼓があることは南海神廟の特徴でもあるし、銅鼓を叩くことも正式な

祭祀儀礼に含まれた。それは民間信仰から発展した可能性が高い。それもこの史料にある「俗

謂洪聖王旧物」(俗に洪聖王の旧物だと言う)と呼応するため注目される。

銅鼓への描写に伴い、方信孺は「銅鼓」という詩文を書いた。

石鼓嵯峨尚有文、舊題銅鼓更無人。

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

寶釵寂寞蠻花老、空和楚歌迎送神 46)。

この詩文で述べられた「寶釵」は前文の『隋書・南夷傳』にある「(cid:2)人」が銅鼓を叩く銅鼓釵

と同一ものである。「寶宝釵寂寞」とは、銅鼓がもはや「(cid:2)人」に使われる器物ではないこと

と考えられる。方信孺が見ていた「現在」の銅鼓には、「空和楚歌迎送神」(楚歌と空しく唱和

して神を送迎する)といった役目しか持たない。ここから、銅鼓の現状について方信孺の見方

が読み取れる。つまり、まず、「空」という字から、「(cid:2)人」による銅鼓の使い方が銅鼓本来の

有り様だとする方信孺の見解が分かる。言い換えると、現に漢人がそれを神廟に運んで祭祀の

道具とした銅鼓は、すでにその本来の役目を失ったのである。また、詩文にある「楚歌」とは、

もともと楚地の歌であったが、方信孺の言う「楚」は、昔の楚国というより、南方地域を汎称

するものの可能性が高い。この前提によれば、「楚歌」は嶺南地域に流行った歌と考えられ、

さらに南海神を祭祀する際に演奏したり歌唱したりした曲と言えるのであろう。南海神を称賛

する曲は、嶽鎮海(cid:3)という国家祭祀としての儀礼に使われたものではなく、広州の地元で形成

された習俗のあらわれだと考えられる。要するに、「空和」「楚歌」から、銅鼓がもはや本来の

役目を失い、当地の漢人にほかの用途にされた、という方信孺の見解を示していると思われる。

宋元時代における広州媽祖廟の銅鼓に関する記述は、元代王沂による『伊濱集』にも見られ

る。なかには「詠天妃廟馬援銅鼓」という詩文がある。

南海天妃廟、今存馬援銅。大音猶戰鼓、餘韻或疑鐘。世駭流傳舊、人推鑄冶工。蟾蜍圓頂

列、翡翠(cid:4)文重。蹲踞環旁峙、周圍體下空。響令羣隊進、降見百蠻從。一代經營意、千年

戰伐功。金湯全漢域、銅柱界堯封。零落香煙裏、淒涼異代中。海祠難獨立、神物會當逢 47)。

注目すべきは、「零落香煙裏、淒涼異代中」(焚かれた香の中でひっそりと、長い時の中で寂

しげに)の一句である。つまり、媽祖廟にあるこの銅鼓は、今では大切にされていないことが

読み取れる。「異代」というのは、この銅鼓がすでに長い間置かれたままであるという、昔の

時代から元代へという「異代」とも推測できよう。すなわち、この銅鼓は宋代から元代に至っ

てずっとこの媽祖廟で保存されていた。媽祖廟内の銅鼓は信者によって運び込まれたものでは

ない。それに対し、南海神を信仰する人たちは、銅鼓を用いて祭祀するならわしをもつように

なった。言い換えると、銅鼓は媽祖信仰の信者にとって特殊な意味を持つわけではない。それ

ゆえ、媽祖廟に置かれても、その銅鼓が信者に重んじられなかった。

では、もしこの銅鼓が媽祖廟に長い時間で置かれたのであれば、この廟宇も長い間存在して

いたと考えられよう。ちなみに、媽祖信仰は南宋期に広州まで伝わったため、廟宇としての媽

祖廟も南宋期以前に存在したことは考えられない。唐宋期における銅鼓の描写からすれば、銅

鼓が南蛮人の楽器であったとはすでに知られていたことで、銅鼓は媽祖信仰と確実なつながり

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振 康

がないと言える。銅鼓がここに置かれる前に、かならず建築物が先に存在したはずである。も

しこの媽祖廟が南宋期に建立されたとすれば、建てられた媽祖廟に銅鼓が運び込まれたと推測

される。しかし、上述した通り、銅鼓と媽祖信仰との間に確実な関連性がないため、わざわざ

媽祖廟に銅鼓を置く必要性が低くなる。もしそうであれば、おそらくもう一つの可能性が考え

られる。それは、この建築物がすでに存在しており、銅鼓もずっとそこで置かれており、南宋

期に入ると、媽祖信仰が広州城に伝わって、人々によって銅鼓が置いてあったこの廟宇は媽祖

廟として改造された、ということであろう。そうであれば、元代人の王沂がそうした広州媽祖

廟を見たことも当然のことであろう。

もしこうした推測が成り立てば、この廟宇が媽祖廟に改造される前に、すでに何かしらの信

仰を祭る廟宇とされていたのかもしれない。媽祖廟に置かれたのは、それ以前の信仰に関連す

る銅鼓だと考えられる。前文に取り上げた元代の『湖海新聞夷堅續誌』で書かれた「廣州城南

五里、有崇福無極夫人廟」(広州城の南五里に、崇福無極夫人の廟がある)からみれば、広州

城の南にあるとされる媽祖廟は、西城に移された南海神西廟の場所と同じである。それでは、

広州城の媽祖廟は、南海神西廟が西城へと移動した後で、城の南にあるその元の廟宇であった、

と考えてもよかろうか。おそらく、南海神西廟と媽祖廟には、こうした場所的交差が存在して

おり、それが広州城に行かなかった祝穆の耳に入ったとき、何か誤解が生じたため、『方輿勝

覧』にあった両者がひとつの廟宇と見なす記述が出来上がったと推測できよう。なお、もとも

と地元住民が銅鼓を南海神廟に置いていたという習俗がある。一方、媽祖を祭るのは海商であっ

たため、必ずしも銅鼓を重んじるわけでもない。そのため、南海神を信仰する地元住民が西城

の新しい西廟で南海神を参拝するようになってから、媽祖廟と変更されたところに置かれた銅

鼓が媽祖を参拝する海商に重視されず、結局媽祖廟にある銅鼓が「零落香煙裏、淒涼異代中」

(焚かれた香の中でひっそりと、長い時の中で寂しげに)という状況になったのかもしれない。

終わりに

本稿では、大奚山の反乱事件に引き起こされた南海神と媽祖の霊験伝説、および広州城にお

ける南海神と媽祖の祭祀空間の関係性、この両側面を中心に考察を行った。媽祖信仰は確かに

南宋期の後半から珠江デルタ地域に伝わり始めたが、珠江デルタ地域を発祥地とした南海神信

仰との交差からみれば、嶺南地域における媽祖信仰の影響力は限定的であった。大奚山の反乱

事件において、南海神信仰は広東水軍の中に相当の影響力を持っており、広東の地方官員にとっ

ても重視すべき存在であり、さらに地元住民にも祭られる対象の一つであった。それに対し、

南宋期の珠江デルタ地域において媽祖信仰は、依然として福建系の人々と密接につながってい

たという特質が見られる。媽祖信仰は大体広東に赴いた福建水軍、および福建から広州に来た

官員と海商によって受け継がれた。

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

媽祖信仰は後に東アジアといったスケールでその発展を遂げたと言われるが、逆に南海神信

仰は後に緩やかなペースで展開していくことが知られている。南海神信仰は珠江デルタ地域を

拠点に伝播・受容を進めており、後においても珠江デルタ地域ではその影響力は媽祖信仰を上

回っていった。両者の展開には差異が見られる。しかしながら、こうした展開の差異は長い歴

史的過程を経て転換を成し遂げたのである。媽祖信仰は南宋期の後半から珠江デルタ地域に入っ

たとはいえ、最初からその影響力が南海神信仰と比類できるわけではないが、南海神信仰と同

等の影響力を持つようになるのは、宋代が終わった後のことだと考えられる。

附録・図

※この図は曾一明「南宋寧宗慶元三年(一一九七)大奚山(今香港大嶼山)島民作亂始 末考」(『珠海學報』第十一期、p23、1980年)に附した図に基づいて作成したもの である。

1)李獻璋 1979『媽祖信仰の研究』、泰山文物社。

2)徐曉望 2007『媽祖信仰史研究』、海風出版社。

3)愛宕松男 1989(初出は 1943)「天妃考」『東西交渉史』、三一書房。

4)古林森廣 1995『中国宋代の社会と経済』、国書刊行会。

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5)王元林 2006『國家祭祀與海上絲路遺跡』、中華書局。 6)1274年に成立したと思われるこの石刻は、大廟湾に近いところにあるため、「大廟湾石刻」と呼ばれ

る。1955年に発見され、1979年に法定古跡として登録された。

7)『嘉慶新安県志』卷之四、山水略「佛堂門在鯉魚門之東南…其北曰北佛堂、其南曰南佛堂、兩邊皆有 天后古廟。北廟創於宋、有石刻碑文數行、字如碗大。歳久漫滅、内咸淳二年四字尚可識。…其南佛堂之 山、乃孤島也。」

8)福州の境内に「于山」「烏石山」「屏山」という三つの山があるため、福州は「三山」という別称を持

つ。

9)王燕萍 2020「宋代における媽祖信仰の実像」『都市文化研究』22、p.55。 10)湯開建 1995「宋代香港地区的塩業生産及塩的走私」『曁南学報(哲学社会科学版)』第 2期、p.55。

この塩場は「官富場」といわれる。

11)『宋會要輯稿』食貨 28/19、鹽法、淳熙十年五月二十九日條。 12)『兩朝綱目備要』卷五、是夏大溪山島民作亂。 13)大奚山の島住民反乱事件については、曾一民 1980「南宋寧宗慶元三年(一一九七)大奚山(今香港大

嶼山)島民作亂始末考」(『珠海學報』第 11期)を参照されたい。

14)『兩朝綱目備要』卷五、是夏大溪山島民作亂。 15)(宋)王象之『輿地紀勝』卷第八十九、廣南東路、廣州。 16)王燕萍 2020「宋代における媽祖信仰の実像」『都市文化研究』22、p.29。 17)『宋會要輯稿』職官 74/1、黜降官、慶元三年十月二日條。 18)黄兆輝・張菽暉 2014『南海神廟碑刻集』廣東人民出版社、p.42。 19)黄兆輝・張菽暉 2014『南海神廟碑刻集』廣東人民出版社、p.42。 20)(宋)潛説友『咸淳臨安志』卷七三、祠祀。(宋)丁伯桂「順濟聖妃廟記」から転引。 21)古林森廣 1995『中国宋代の社会と経済』国書刊行会、p.134。 22)(元)程端學『積齋集』卷四、靈濟廟事跡記。 23)(宋)潛説友『咸淳臨安志』卷七三、祠祀。 24)徐曉望 2007『媽祖信仰史研究』海風出版社、pp.75-78。 25)王元林 2006『國家祭祀與海上絲路遺跡』中華書局、p.194。 26)(宋)祝穆『方輿勝覽』卷三四、廣東路、廣州。 27)(元)程端學『積齋集』卷四、靈濟廟事跡記「嘉定十年亢旱、(cid:2)之、雨。海寇犯境、(cid:2)之獲息、封靈

惠助順顯位英烈妃。」

28)劉瑞點校 2010『南海百詠●南海雜詠●南海百詠續編』廣東人民出版社、pp.4-5。 29)記載時期と成書時期とには時間差があるが、具体的な記載時期を考察しにくいので、ここでは成書時

期に拠ることとする。

30)(宋)劉克莊『後村集』卷三六、祝文、「聖妃廟」。 31)(宋)劉克莊『後村集』卷三六、祝文、「謁南海廣利王廟」。 32)(宋)劉克莊『後村集』卷三六、祝文、「聖妃廟」。 33)(宋)劉克莊『後村集』卷三六、祝文、「南海廟」。 34)(元)佚名『湖海新聞夷堅續誌』後集、卷二、神明門、神靈、「崇福夫人神兵」。 35)(宋)劉克莊『後村集』卷一二、撰詩、「城南」という詩には「濱江多海物、比屋皆(cid:3)人」と記載され

る。ここから、南宋期において、広州城の南には大勢の福建人が居住していたことが分かる。

36)注 26と同文。 37)王元林は『國家祭祀與海上絲綢之路』において、祝穆が南海神の西廟と媽祖廟の位置を間違えたと指 摘する(王元林 2006、p.184)。一方、「宋代における媽祖信仰の実像」において王燕萍は祝穆の記載を 肯定的に用いたと見える(王燕萍 2020、p.32)。

38)(宋)劉克莊『後村集』卷一二、撰詩、「即事十首」。 39)(宋)方信孺『南海百詠』、南海廟。 40)『國家祭祀與海上絲路遺跡』において、王元林は西廟の位置的変遷について詳細な考察を行った(王

元林 2006、pp.203-209)。

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宋代の珠江デルタ地域における南海神信仰と媽祖信仰の交差

41)銅鼓について、ここでは、近年における銅鼓研究の成果の集大成ともいえる『嶺南銅鼓』(蒋廷瑜 2018、

広東人民出版社)を参照されたい。当書では文献史料からみられる史的考察はもちろん、銅鼓の鋳造・

芸術、および銅鼓とかかわる嶺南地域の習俗、社会生活、少数民族なども含めて嶺南地域の銅鼓を検討

している。

42)『隋書』卷三十一、志第二十六、地理下「諸(cid:2)皆然、並鑄銅鼓為大鼓。初成、懸於庭中、置酒以招同 類。來者有豪富子女、則以金銀為大釵、執以叩鼓、竟乃留遺主人、名為銅鼓釵。俗好相殺、多構仇怨、

欲相攻、則鳴此鼓、到者如雲。有鼓者、號為都老、群情推服。本之舊事、尉佗於漢自稱蠻夷大酋長老夫

臣、故俚人猶呼其所尊為倒老也、言訛、故又稱都老云。」

43)(宋)周去非『嶺外代答』、樂器門、銅鼓。

44)南海神廟にある銅鼓について、『嶺南銅鼓』(蒋廷瑜 2018、pp.61-62)および「南海神廟銅鼓詩與銅

鼓文化考」(伍文義、『嶺南文化』第 11期、2005年)には明清期の南海神廟の銅鼓を中心に検討が行わ

れる。しかし、宋代の南海神廟の銅鼓に関する言及は多くない。

45)(宋)方信孺『南海百詠』、銅鼓。

46)(宋)方信孺『南海百詠』、銅鼓。

47)(元)王沂『伊濱集』卷十、詠天妃廟馬援銅鼓。

IntersectionbetweentheSouthseaGodbelief andMazubeliefinThePearlRiverDeltaare duringtheSongDynasty

ZHUANG Zhenkang

MazubeliefwasintroducedintothePearlRiverDeltaduringtheSouthernSongDynasty,which

intersectedwiththeSouthseaGodbelief.Previousstudieshavefocusedonthecomparisonofthese

twobeliefs.However,thespecificintersectionofthesetwobeliefscannotbesaidtohavebeenfully

discussed.Thispaperwilldiscusstheintersectionofthesetwobeliefsfrom thefollowingtwoaspects.

First,itisabouttherebelliononLantauIslandduringtheQingyuanPeriod(1127-1279).Second,it

isaboutthesetwobeliefsintheSouthernSongDynastyinGuangzhoucityofworshipspace

Keyword:LantauIsland,theophany,SouthseaGodTemple,CantonMazutemple

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法緣留言(

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ID: paper:e1922d56c118 · 最後更新:2026/5/22· 版本:20260522 · 版本歷史

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