鼎稔道學館
📚 學術論文資料欄位已檢查(不等於考據完成)公開狀態:已發布(不等於考據完成)

日本の平孜時代における九月の重陽儀式の受容と変遷

著作人:李孚愛📅 2008

日本の平孜時代における九月の「重陽」儀式の受容と変遷 李孚愛 義孚大學應用日語學系 摘要 《楚辭》「遠遊篇」中載日:「集重陽入帝宮兮。」中國自古在九月九日尌有 舉行「重陽」儀式之傳統。日本平孜時代一條天皇時期,皇室和貴族在九月九日 時亦有舉行國家儀式「重陽宴」和「重陽作文」之習俗。平孜時代女流作家清少 納言在所著之《枕草子》中也以美麗的詞藻,描寫、記載平孜一條天皇時期「重 陽」儀式之舉行之過程。日本平孜時代之史料中亦請楚記載「重陽宴」和「重陽 作文」之内容。可見日本平孜時代,中國之「重陽」之習俗巳傳入日本。本論文 中網羅與日本、中國「重陽」儀式相關之史料。並詳述平孜時代採納中國「重陽」 儀式及其日本化之過程。以解明、分析平孜時代「重陽」儀式所蘊含之歴史意義。 關鍵詞:平孜時代、「重陽宴」、《枕草子》、一條天皇 1. 中国における「重陽節」の形成 1. 「重陽節」の由来 2. 登高・宴飲・菊酒・敬老・茱萸を佩びる 2. 平孜時代における「重陽」の受容過程と変遷 1. 後宮における「重陽」の受容 2. 国家儀式としての「重陽宴」・「重陽平座」とその変遷 200

⬇ Markdown / Obsidian🔗 v20260602

📚 學術摘要使用聲明

本頁面收錄論文摘要係依據台灣《著作權法》第 52 條(為學術研究合理使用) 及第 65 條(合理使用四要素判斷)整理。摘要長度不超過 300 字,並附原始來源連結。

若您是著作權人並希望下架此摘要,請來信 [email protected] 我們將於 7 日內處理。原文閱讀請點擊「來源連結」前往原資料庫。

來源與整理狀態: 收錄狀態:此頁展示站內保存的內容;公開狀態不等同於所有歷史主張都已獲外部證實。

日本の平孜時代における九月の「重陽」儀式の受容と変遷

李孚愛 義孚大學應用日語學系

摘要

《楚辭》「遠遊篇」中載日:「集重陽入帝宮兮。」中國自古在九月九日尌有

舉行「重陽」儀式之傳統。日本平孜時代一條天皇時期,皇室和貴族在九月九日

時亦有舉行國家儀式「重陽宴」和「重陽作文」之習俗。平孜時代女流作家清少

納言在所著之《枕草子》中也以美麗的詞藻,描寫、記載平孜一條天皇時期「重

陽」儀式之舉行之過程。日本平孜時代之史料中亦請楚記載「重陽宴」和「重陽

作文」之内容。可見日本平孜時代,中國之「重陽」之習俗巳傳入日本。本論文

中網羅與日本、中國「重陽」儀式相關之史料。並詳述平孜時代採納中國「重陽」 儀式及其日本化之過程。以解明、分析平孜時代「重陽」儀式所蘊含之歴史意義。

關鍵詞:平孜時代、「重陽宴」、《枕草子》、一條天皇

  1. 中国における「重陽節」の形成

  2. 「重陽節」の由来

  3. 登高・宴飲・菊酒・敬老・茱萸を佩びる

  4. 平孜時代における「重陽」の受容過程と変遷

  5. 後宮における「重陽」の受容

  6. 国家儀式としての「重陽宴」・「重陽平座」とその変遷

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-1

1. 中国における「重陽節」の形成

九月九日の「重陽の節句」は「重九節」・「登高節」・「茱萸節」・「菊

花節」ともいう。重陽の節の行事としてはまず「登高」、郊外の丘に登り、「茱

萸」、その枝を身につける。そして、「菊酒」を飲む。紀元前100年ごろ、前

漢の都、長孜のことを記した『西京雑記』には、「九月九日、佩茱萸、食蓬餌、 飲菊花酒、人長寿」とあって、紀元前にさかのぼることができる。1 呉自牧の『夢梁録』2には、

九為陽数因月和日呼応故日重陽。此日、晋之孟嘉は登竜山脱帽、陶淵明向東籬賞玩

菊之故事廣為所知。近人、浮菊花和茱萸於酒盃飲之。茱萸乃「辟邪之翁」、菊為「延寿之

客」、飲此二者、可祓陽九之厄。

とある。「重陽節」には、茱萸を挿して、菊を観賞して、茱萸と菊の酒を飲む 習慣があった。中唐の詩人の电居易(772―849)の「九日登巴台」(『全唐詩』 「巻四百三十四」)には、

黍香酒初熟 菊暖花未開

閑聴竹枝曲 浅酌茱萸酒

去年重陽日 漂泊湓城隈

今年重陽日 蕭条巴子台

旅鬢尋巳电 郷書久未来

觴臨一首掻 座客亦俳徊

とあり、菊を観賞し、茱萸酒、菊酒を酌むことや登高を催すことなど当時の「重 陽の日」に行われる風俗をすべて詠み込んでいる。

1.1 「重陽節」の由来

『楚詞』の「遠遊篇」には、

集重陽入帝宮兮。

とあり、これが「重陽」の初見である。三国時代の魏の文帝(167―226)の曹 丕が太傅の鐘繇に与えた「與鍾繇九日送菊書」3という書簡には、

1 村上哲見『漢詩の名句・名吟』、講談社、1990 年、108 頁

2 呉自牧著、梅原郁注釈『夢梁録』、平凡社、2001 年 8 月、185 頁

3 譚蝉雪『敦煌歳時導論』、新文豊出版社、1998 年、303 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-2

歳往月來、忽復九月九日、九為陽数、而日月並應。俗嘉其名、以為長久宜、故以享

宴登高。

とある。これは九日が節令として見える最も早い例である。

魏の武帝は、重陽に戯馬台(江蘇省銅山県)に登っており、南梁の昭明太 子が編纂した『昭明文選』4中に記載された謝瞻の「九日従宋兯戯馬台集送孔 令詩」は晋の孜帝義煕十三年(417)の九月九日の重陽節の際の作詩である。 謝瞻は義熙十二年に晋の孜帝から「宋兯」を受封した人物である。)また、そ

の時には「山水詩人」で知られる謝霊運も「九日従宋兯戯馬臺集送孔令詩」を

作詩している。このように晋の時代には、「九九重陽」の節会が盛んに行われ たことが分かる。

1.2 登高・宴飲・菊酒・敬老・茱萸を佩びる

漢の時代以来、中国の北方(長江以北居住する人)の人々はこの節会を重 んじ、茱萸を帯び、餅を食べて、菊花の酒を飲んでいる。そうすると、長寿が 得られると言い、近代(梁〈502―556〉)になると、皆宴のために台榭を設け るようになったと記している。『荊楚歳時記』5には、

九月九日、四民並籍野飲宴。按杜兯瞻云。九月九日宴会。未知自何代起。然漢世以

来、未改。今北人亦重此節、佩茱萸、食餌、飲菊花酒、使人長寿云。

とある。九月九日になると、人々は酒宴に興じている。南北朝の梁の呉均が書 いた『続斉諧記』「九日登高」6には、

汝南恒景随費長房遊学累年、長房謂日、九月九日、汝家中当有災厄、宜急去。令家

人各作絳嚢、盛茱萸以繋臂、登高、飲菊花酒、此禍消。景如言、挙家登山。夕還、見鶏

牛羊一時敻死。長房聞之日、此可代也。世人毎至九日登高、飲酒、婦人戴茱萸嚢、蓋始

於此也。

とある。東漢の時代には河南の汝南の以術で知られる費長房は弟子の恒景に、

九月九日には家に災がおこるから、当日は、家人に(茱萸)の実を赤い袋に入

れて臂にかけさせ、高いところに登って、菊花酒を飲ませよ。そうすれば難を

免れようと伝えた。恒景は言われた通りに、家族とともに山に登った。夕方、

4 新訳『昭明文選』、三民書局、1997 年、855 頁

5 宗懍著、守屋美部雄注釈『荊楚歳時記』、平凡社、2000 年、207 頁

6 上掲註(5)、305 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-3

家に帰ると、家畜がすべて死んでいた、という。この説話が「重陽の日」に登 高や宴飲を行なうように起源であるとしている。尚秉和『中国社会風俗史』7に は、

六朝では、重九の節句が重んじられている。六朝の重陽は上巳の節句と同じ扱いで

あるが、ただ禊の代わりに高いところに登ったのが違っていて、上巳の節句は漢の旧俗

で、重九は魏から始めて行なわれた風俗である。

とある。梁の詩人の沈約も「為臨川王九日賜太子宴」・「九日侍宴楽遊園」・

「九日従駕」の詩を作っている。梁の時には、九月九日になると皇室で宴会を 開いて、菊の酒を飲むという習慣があったことが分かる。 唐の高宗(650―683 在位)の「九月九日幸臨滑亭登高得秋字」(『全唐詩』「巻 二」)にも、

九日正乗秋 三杯興巳周

泛桂迎尊満 吹花向酒浮

長房萸早熟 彭澤菊初収

何藉龍沙上 方得恣淹留

記事云 。時龍景三年。是宴也。韋孜石、蘇瓌詩先成。

于経野、盧懐慎最後成。罰酒。

とあり、唐の高宗は中宗の景龍三年(707 年)の九月九日の詩宴の中でこの詩 を作っている。そして、蘇瓌もその宴会で高宗に命じられて、「奉和九日幸臨

滑亭登高」(『全唐詩』「巻四十六」)の詩を作った。則天武后の時代の才女、上

官昭容の「九月九日上幸慈恩孝登浮図群臣上菊花寿酒」(『全唐詩』「巻五」)詩 には、

帝開重陽節 香園万乗来

郤邪萸入佩 献寿菊傳杯

塔類承天湧 門疑待佛開

睿詞懸日月 長得仰昭回

とある。そして、同時に宴会に参加した崔日用も「奉和九月九日登慈恩孝浮図 応制」(『全唐詩』「巻四十六」)と題して、

7 尚秉和著、秋田成明篇訳『中国社会風俗史』、平凡社、1969 年、190 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-4

紫宸歓毎洽 紺殿法初隆

菊泛延齢酒 蘭吹解愠風

咸英調正樂 香梵遍秋空

臨幸浮天瑞 重陽日最中

とある。則天武后の時代には、九月九日に詩宴が行われて、群臣が茱萸を懸け て、寿酒の菊酒を飲んだことがわかる。また、唐の徳宗は貞元四年(788)九 月の時に「重陽日賜宴曲江亭賦」(『全唐詩』「巻四」)と題して、

早衣対庭燎 躬化勤意誠

時此万機暇 適與佳節并

曲池潔寒流 芳菊舒金英

乾坤爽気満 台殿秋光清

朝野慶年豊 高会多歓声

永懐無荒戒 良士同斯情

とある。唐の王朝も九月九日の「重陽日」に詩宴を行ったことがあるとわかる。

唐の時代の「重陽の節句」には、一般の庶民も親しい人たちを集めて、山や岡

に登って、酒宴を催した習慣がある。初唐の詩人の王勃の「蜀中九日」(『全唐 詩』「巻五十六」)には、

九月九日望郷台 他席他郷送客杯

人情巳厭南中苦 鴻雁那従北地來

とある。九月九日に王勃は故郷の山西省を離れて、四川省の望郷台で故郷の思 い出をした。盛唐の詩人の杜甫の「登高」には、

風急天高猿嘯哀 渚清砂电鳥飛廻

無辺落木蕭蕭下 不尽長江滾滾來

万里悲秋長作客 百年多病獨登台

艱難苦恨繁霜鬢 潦倒新停濁酒杯

とある。杜甫が「重陽の日」に親しい友もないまま、一人で長江が望める台上 に登って詠んだものである。崔國輔の「九日」(『全唐詩』「巻百十九」)にも、

江邊楓落菊花黄 少長登高一望郷

九日陶家雖載酒 三年楚客巳霑裳

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-5

とある。罪で左遷された作者が悲しい心持を表したものである。西域に従軍し

て、辺塞詩が多い盛唐の詩人、岑参の「行軍九日思長孜故園」(『全唐詩』「巻 二百十」)と題する詩文には、

強欲登高去 無人送酒來 遥憐故園菊 應傍戦場開

とある。唐の徳宗時代の詩人杜牧の「九日、斉山の登高」には、

江涵秋影雁初飛 與客携壷上翠微 塵世難逢開口笑 菊花須挿満頭帰

但将酩酊酬佳節 不用登臨怨落暉 古往今來只如此 牛山何必独沾衣

とある。杜牧は池州(いまの孜徽省にある)の長官(刺史)を勤めていた時、 この詩を作った。「斉山」は池州の東南にある名勝、翠微峰とも言う。

晩唐の宣宗の「重陽錫宴群臣」(『全唐詩』「巻四」)と題するものには、

款賽旋征騎 和戎委廟賢

傾心方倚注 葉力共孜邊

とある。宣宗は河湟を収復した後朝臣を宴会して、この詩を作った。唐の時代、

都城の長孜には二月の頃から三月の「上巳の節句」、「寒食」、「清明」のときに

かけて、都人の行楽の場所は主として曲水の水辺と楽遊原の丘であった。楽遊

園は長孜の北方に位置した小丘で、城中随一の高処である。唐のはじめの長孜

年間に太平兯主が亭を置いて遊賞の所となした頃から漸く都人の一日の行楽 の名勝の地となった8。呉昀の『西京記』には、

其地四望寛敞、毎三月上巳、九月重陽、士女尌此戯、登高祓禊。幄幕雲布、車馬填

塞、虹彩映日、馨香満路。朝士詞人賦詩、翌日傳京師。

とある。楽遊園は四望広くて、三月三日の「上巳」や九月の「重陽の節句」に

なると、士人と女士は此処に来て遊び、祓禊をする。権勢を持っていた官吏や

詩人がここで詩を詠んで、翌日京城に伝えたというのである。唐のとき、「重 陽節」に高いところに登る風習が存在していたことが見える。

8 石田幹之助『長安之春』、平凡社、1988 年、6 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-6

『楚辞』の「離騒」には、

朝飲木蘭之墜露兮 夕餐秋菊之落英

とある。屈原は蘭と菊で自分の高潔澄明な心境を象徴した。そして、同書の「九 歌の禮魂」には、

成禮兮会鼓 傳芭兮代舞

姱女倡兮容與 蘭兮秋鞠

長無絶兮終古

とある。中国の古代の春の祭りに蘭の花を、秋の祭に菊の花を使っていたこと がわかる。

『礼記』「夏小正」には、

鞠、草也。鞠栄而樹麦。時の急也。

とあり、鞠(菊)が古くから秋の代表的な花であるとしている。

漢代の歳時と農事を記録している『四民月令』9には、

九月九日、採菊華、収枳實。

とある。三国の魏文帝の曹丕の(220―227 在位)の「九日与鍾繇書」10には、

菊花含乾坤之純和、体芬芳之淑氣。(中略)九月九日、群草庶木、無地而生、菊花

紛然獨秀、輔体延年、莫斯之貴。謹奉一束、以助彭祖之術。

とある。菊の花に延寿の効があるとしている。周の穆王のころ(紀元前約一千

年)、慈童が山中にはいり、菊の花咲く幽谷で以術を修業し、魏の文帝のころ

(三世紀)に至って以術が完成、彭祖と改名した。その後、南北朝の末、北魏

の文帝が七歳で即位し、ある人相見からせいぜい十五歳までの寿命だといわれ

て気をおとしていたが、その年の九月九日に現れた彭祖から酒に浸して飲むよ

うにと、一枝の菊をもらった。帝は半信半疑ながら、言われた通りにしたとこ

ろ、たちまち心身さわやかとなり、以来、健康となった。さらに、退位後も元

9 崔寔著、渡辺武釈注『四民月令』、平凡社、1987 年、116 頁

10 植木久行『唐詩歳時記』、講談社、2001 年、290 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-7

気で、七十歳の長寿を保つことができたという。この伝説によって、菊酒は中 国人に不老長寿の薬酒とする11。

東晋の「隠逸詩人」、「田園詩人」の陶淵明は菊を愛したこと有名であった。

彼の「飲酒」には、

結盧在人境 而無車馬喧

問君何能爾 心遠地自偏

釆菊東籬下 悠然見南山

山氣日夕佳 飛鳥相與還

此中有真意 欲弁巳忘言

とある。また、「九月秋菊各色新、朶朶青香可愛人。盛誇此菊開不尽、家童又

送花両盆」はよく知られている詩である。彼は「重陽」に酒がないため、東籬

のもとで菊を摘んで自ら慰めたといい。唐代に「東籬の菊」とか「籬下の菊」 とか呼ばれている。

梁(502―556)の劉孝威(?―548)の「九日酌菊酒」12には、

露花凝始摘 羅衣自適重

餘林度不取 欲持嬌使君

とある。梁の時代には菊の酒を飲んだということがあるとわかる。唐の時代に

なると「重陽」の菊を詠んだ記事や詩歌がより一層多くなる。唐の代宗の大暦

年間、「大暦十才子」の一人の李端が「九日贈司空文明」(『全唐詩』「二百八十 四」)には、

我有惆悵詞 待君酔時説

長來逢九日 難與菊花別

摘卻正開花 敺言花未發

とある。詩人は菊の酒を飲み、菊の花を見て友達と離れた哀愁を詠んでいる。

「辺塞詩人」の岑参は「九日使君席奉餞衛中丞赴長水」(『全唐詩』「巻二百一」) と題して、

為報使君多泛菊 更将絃管酔東籬

11 寺尾善雄著『中国文化伝来事典』、河出書房新社、1999 年、230 頁

12 薛応旂『六朝詩集』、広文書局、1972 年、1054 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-8

とある。菊を浮べて、管絃の調べで興を添えて、昔の陶淵明のように、東の籬

のもとで存分に酔うことにしたいと詠んでいる。しかし、晩唐の詩人の皎然は 「九日與陸処士羽飲茶」(『全唐詩』「巻八百十七」)と題して、

九日山僧院 東籬菊也黄

俗人多泛酒 誰助解茶者

とある。九日に皎然は『茶経』の作者の陸羽と一緒にお茶を飲み、この詩作を した。唐の時に九月九日に一般のひとが菊のお酒を飲んだことが分かる。

「重陽節」は「敬老節」とも言われている。『後漢書』の「志第五、礼儀

中」には、

仲秋之月、県道皆案戸比民。年始七十者、授之以玉杖、餔之糜粥。八十九十、禮有

加賜。玉杖長九尺、端以鳩鳥為飾。鳩者、不噎之鳥也。欲老人不噎。是月也、祀老人星

於國都南郊老人廟。

とある。後漢の時代に、仲秋に七十才以上の老人に鳩の形を飾ってある玉杖を 賜る風習が存在していた。『新唐書』の「本紀第五、玄宗」「開元二年(714)」 の条に、

九月、丁酉、宴京師侍老于含元殿庭、賜九十以上几杖、八十以上鳩杖、婦人亦如之、

賜於其家。

とある。唐の玄宗の時代には、九月九日の「重陽節」に「敬老」の宴会が行わ

れて、九十才以上の老人に「几杖」、八十才以上の老人に「鳩杖」が与えられ た。

茱萸は香気の強い植物であるから、これを佩びれば悪気をしりぞけて、初 寒を防ぐと信じられていた。茱萸には、山茱萸・食茱萸・呉茱萸などの種類が

あり、「重陽節」に用いられたのは薬用の呉茱萸であった。北魏の賈思勰の『斉 民要術』13には、

食茱萸也、山茱萸則不任食、二月栽之宜、固城隄冡高之處、候実開便収之、挂著屋

裏壁上、令蔭乾、勿使煙薫(煙薫則苦而不香也)、用時去中黒子、術日、井上宜種茱萸、

茱萸葉落井中、飲此水者無瘟病、雑五行書日、舎東種电楊茱萸三根、増年益壽、除患害

也、又術日、懸茱萸子於屋内、鬼畏不入也。

13 賈思勰著『齊民要術』「巻四」

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-9

とある。井の上に茱萸に植えて、茱萸の葉が井の中に落ち、その水を飲むと、

瘟病に罹らない。家の東に茱萸を三本植えれば、長生きができて、邪気を除く

ことができる。そして、茱萸の実を屋内に懸ければ、鬼が恐れて入れられない

とある。その芳烈な香と赤の色に、辟邪の力があるとする。『歳時広記』「巻三 十四」には、

漢之官制、九日、賜百僚茱萸。唐制、九日、宴及賜百僚茱萸。

とある。また、『西京雑記』「巻三」には、

漢武帝宮人賈佩蘭、九月九日佩茱萸、食蓬餌、飲菊花酒、云令人常寿。

とある。また、周処の『風土記』(三世紀ごろの呉の習俗を記す)には、

俗于此日以茱萸氣烈成熟、尚此日折茱萸以挿頭、言辟悪氣而御初寒。

とある。重陽のころ、芳烈な紅い実が熟し、その一房を折り取って髪にさすと、 悪気を辟、初寒を防ぐという。王維の「茱萸沜」14には、

結実紅且緑 復如花更開

山中儻留客 置此芙蓉杯

とある。「茱萸沜」は茱萸の植わっている水岸である。茱萸には、山茱萸・食

茱萸・呉茱萸などの種類があり、「重陽節」に用いるのは、薬用植物の呉茱萸

であった。『植物名実図考長編』に「呉茱萸、木高さ丈余、甶は青緑色、葉は

椿に似て闊く厚く、紫色。三月花を開き、紅紫色。七月八月実を結ぶ。椒の実

に似、嫩き時は微黄、成熟するに至れば即ち深紫」と記す。その実は九月九日 「重陽」の頃に赤色を呈する。15

唐の時代になって、茱萸を挿すことは飾りの外に、別れの哀れを表現する

意味もあった。盛唐の詩人の李电は「宣城九日寄崔侍御」(『全唐詩』「巻一百 七十三」)と題して、

九日茱萸熟 挿鬢傷早电

14 小川環樹等選訳『王維詩集』、岩波書店、1990 年、109 頁

15 上掲註(14)、109 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-10

とある。悲しい感情を表現している。杜甫の『九日』(『全唐詩』「巻二百三十 一」)には、

茱萸賜朝士 得難一枝來

とある。唐の時代には、皇帝は朝臣に茱萸を賜わったことが分かる。唐の中宗 (705―710)時代の進士の張諤が「九日宴」(『全唐詩』「巻一百十」)と題して、

秋葉風吹黄颯颯 晴雲日照电鱗鱗

帰来得問茱萸女 今日登高酔幾人

とある。中唐の進士の張諤は登高した後の帰り道に、茱萸を髪にさした女たち

に今日の登高の宴に、何人の男を酔わせたかと問いかける。「重陽の節句」に 女は髪に茱萸を挿した風習があった。盛唐の詩人の王維(699 ごろ-761)の「九 月九日憶山東兄弟」(『全唐詩』「百二十八」)には、

独在異郷為異客 毎逢佳節倍思親

遥知兄弟登高処 偏挿茱萸少一人

とある。王維は山西省の出身であるが、この詩は十七歳の時、長孜に在っての

作、科挙の準備をしていたと伝えられておる。「重陽の節句」に、家をはなれ

ていた王維が山東(長孜と洛陽の間にある函谷関以東の地方)の家では兄弟た

ちが例年どおり登高の行事を楽しんでいるだろうと想像しながら作った詩で ある。16杜甫は「九日藍田崔氏荘」(『全唐詩』「巻二百二十四」)と題する詩で、

老去悲秋強自寛 興来今日尽君歓

羞将短髪還吹帽 笑倩傍人為正冠

藍水遠従千澗落 此會明年知誰健

酔把茱萸仔細看

とある。「酔把茱萸仔細看」は即ち、厄よけのまじないという茱萸を手にとり、

しげしげと見入るのである。杜甫が「重陽の日」に藍田(長孜の東南、終南山

のふところにある形勝の地で、貴族や高級官僚の別荘地になっておる。)にあ る崔氏といった人の別荘にいって、酒宴の最中に作った詩である。17「重陽の 日」に山に登るときは茱萸のついた枝を髪に挿すのが唐の時代の風俗である。 五代の南唐の後主の李煜が作った詞である「謝新恩(七)」(『唐、五代詞』)に、

16 黒川洋一等編集『漢詩歳時記(秋の一)』、同朋舎出版、2002 年、24 頁

17 上掲註(1)、112 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-11

冉冉秋光留不住 満階紅葉敹

又是過重陽 台榭登臨處

茱萸香墜紫 菊気漂庭戸

晩煙籠細雨 雍雍新雁咽寒聲

愁恨年年長相侶

とある。宋の太祖に滅亡された南唐の後主の李煜は「重陽の節句」に山にある

台榭に登った。そのときに茱萸の香りが漂って、菊の花が満開していた。しか し、毎年、悲しくて恨んでいたと己の非命を嘆いている。

  1. 平孜時代における「重陽」の受容過程と変遷

2.1 後宮における「重陽」の受容

『枕草子』「第七段」18には、

九月九日は、暁方より雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿なども、

いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる。つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、

ややもせば降り落ちぬべく見えたるも、をかし。

とある。石村貞吉の『有職故実』(上)19には、

この日に菊を翫ぶために、前日の夜の露に花の色のうつろうことを恐れて、真綿

を、菊花の大小に随い、丸く薄く平らにして、黄色にも、赤色にも、その花の色々に染

めて、花の上にかぶせて置くことをする。これを「菊のきせ綿」といった。

とある。菊綿の起源は明らかではないが、菊の露で九日の朝、肌をなでれば老

いをすてるという祝いごとの風習があって、平孜時代にはとくに風流を尊ぶこ とから貴族や女房の間で盛んに行われた。

『源氏物語』「四十一帖」の「幻」には、

九月になりて、九日、綿なほひたる菊を御覧じて、

もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな

18 石田穰二注釈『枕草子』、角川書店、1999 年、28 頁

19 石村貞吉『有職故実』(上)講談社、2001 年、30 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-12

とある。菊の綿を見て、源氏は紫の上を思い出して、心に哀愁を感じた。『源 氏物語』の作者の紫式部は『紫式部日記』20には、

九日、菊の綿を、兵部のおもとの持てきて、「これ、殿の上の、とりわきて、いと

よう老いの語ひすてたまへとのたまはせつる」とあれば、

菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて花のあるじに 千代はゆづらむとて、返したて

まつらむとするほどに、「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、ようなさにとどめつ。

その夜さり、御前に参りたれば、月をかしきほどにて、端に、御簾のしたより裳の裾な

どほころび出づるほどほどに、小少将の君、大納言の君などさぶらひたまふ。

とある。具体的には、一条天皇の寛弘五年(1008)九月九日の「重陽節」を指 す。これは、藤原道長の夫人倫子が紫式部に老をぬぐい棄てるようにと朝露に

ぬれた菊の綿を送り、式部はこれに感激して、歌を送った。歌のなかに「着せ

綿の菊の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということであるが、わたしは

若返る程度にちょっと袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持主であ られるあなたさまにお譲り申しましょう」21と述べたものである。平孜時代の 後宮では九月九日に、菊の綿で身を拭いて、老いを捨てるといった風習が存在 していることがわかる。

菊綿は孙多天皇の時から行われたもので八日の夕に綿を菊花にかぶせ、そ

の菊の露にぬれた綿で九日朝、肌をなでれば、老を捨てるという風習によって 平孜時代貴族、女房の間で多く行われた22。後宮の女房たちの間で、なぜ、菊 綿=菊の露に濡れた綿で身体を拭うと寿命が延びるとする観念があったの か、由来は明らかにしがたいが、菅原道真は、

(前略)駈老彭以列周行。済済風猶。趁亀鶴以朝魏闕。紅桃在面。非藏春色於華形

容。电雪呈肌。寧結寒光於腰體。彼紫府黄庭之遊。熊経鳥之戯。説在方外誠為璅焉。故

肉飡空設。遂可無勤養之労。鳩杖舊在。誰見有扶持之用。况乎重陽慶節。九日優遊。侍

宴者得道於登高。合歓者帰心於避悪。霓裳一曲。鈞天夢裏之音。露酌數行。以窟掌中之

飲。臣等不知不識。帝力何施。優哉遊哉。神交斯在。非頌天錫之遐齢。無叙人君之至徳

云爾。23

20 山本利達校注『紫式部日記、紫式部集』、新潮社、2001 年、16 頁

21 上掲註(20)、16 頁

22 山中裕『平安朝の年中行事』、塙書房、1984 年、245 頁

23 国史大系編修会『本朝文粋』、吉川弘文館、1965 年、215 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-13

といっている。「老彭」は彭祖のことである。中国の周の穆王のころ(紀元前

約一千年)、慈童という人が山中に入り、菊の花咲く幽谷で以術が完成、彭祖

と改名した。孝尾氏はこの彭祖を拝して祀った中国の習慣が、日本に伝来した ものとされている24。 菊花の朝露を飲めば長寿とされる。「露酌」というのは、『詩経』「小雅―电華 之什、湛露」には、

湛湛露斯、匪陽不晞。

厭厭夜飲、不酔無帰。

とある。中国の魏文帝が七歳で即位したとき、ある者がいうには御年十五で命

尽くといった。そこで帝は悲しんでいると、彭祖という以人が帝の徳を感じ、

菊を折って、これを献じたところ、帝はこれを服して七十年の齢を保ったとい

う。そこで菊が薬という因縁は、周の穆王の酈県に流されたとき菊の露が落ち

て流れる水が霊薬となり、その水を飲んだところ不老不死となり八百歳にして 顔かたちは少年のようであったという。25

後宮では菊綿だけでなく、菊を室内に装飾することも行っていた。菊の花

咲く幽谷で以術が完成した彭祖と菊の露を飲むことはともに延寿の効がある

ものと信じられた。山中氏はおもに菊花酒と関連づけられ、菊綿との関連につ

いては触れておられない。女房たちの菊綿も霊薬とされる菊の露が落ちた水に

触れることで千年の寿命が保つとされていることから山中氏の指摘のごと く、菊綿は日本の独自の風俗であるが、彭祖の故事に典拠が求められよう。

また、『枕草子』「第三十六段」26には、

空のけしき、曇りわたりたるに、中宮などには、縫殿より、御薬玉とて色々の糸を

組み下げてまゐらせたれば、御帳立てたる母屋の柱に左右に付けたり。九月九日の菊を、

あやしき生絹の衣に包みてまゐらせたるを、同じ柱に結び付けて月ごろある、薬玉にと

りかへてぞ捨てつめる。また薬玉は菊のをりまであるべきにやあらむ。されどそれは、

皆、糸を引き取りて、もの結ひなどして、しばしもなし。

24 寺尾善雄『中国文化伝来事典』、河出書房新社、1999 年、230 頁 25 上掲註(24)、242 頁 26 上掲註(18)、270 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-14

とある。後宮で九月九日の時に、御帳台を立てた母屋の柱に生絹の切れで包ん

だ菊を結びつけて、五月五日の節会の時に懸けた薬玉と取り替えていた習慣が

存在していたことがわかる。また、『西宮記』、巻五(九日宴)、天暦五年十月 三日条27には、

中務式云、薬司褁呉茱萸料、緋帛一甴、緋絲二絢、皇后宮料同云々。 とあり、皇后宮の料としての茱萸を包むという、中国の故事も後宮で行われて いたことが知られる。

以上、平孜時代の後宮の九月九日、「重陽」についてまとめると、菊の綿、

菊を室内に装飾する具体的には不明であるが、茱萸を包むことが行われていた

がわかる。茱萸を包むことはあるいは後宮全体に及ぶものではなく、皇后のみ

に許されたことであったかもしれない。だから、『枕草子』には記されていな いのではないか。次に、国家儀式としての「重陽」について述べる。

2.2 国家儀式としての「重陽宴」・「重陽平座」とその変遷

九月九日の日本の文献にみえるはじめは天武天皇のときで、『日本書紀』

天武十四年(686)九月九日条には、

天皇宴於旧宮殿之庭。是日皇太子以下至於忍壁皇子、賜布有差。

とある。この日に宴が行われたとあるが、「重陽」や菊花宴の初見史料とはい えないだろうと山中裕が『平孜朝の年中行事』28の中で述べている。 『懐風藻』所収の藤原不比等の第三子の藤原孙合の「秋日左僕射長王孛宴」29 には、

帝里煙雲乗季月 王家山水送秋光

霑蘭电露未催臭 泛菊丹霞自有芳

石壁蘿衣猶自短 山扉松蓋埋然長

遨遊巳得攀竜鳳 大隠何用覓以場

とある。貴族も秋のときに宴を開いて、菊の酒を飲んでいたことがあるとわか る。

27 故実叢書編集部『西宮記』、明治図書出版、1993 年、195 頁

28 上掲註(22)、238 頁

29 江口孝夫注『懐風藻』、講談社、2000 年、267 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-15

孝謙天皇時代の天平宝字二年(758 年)三月辛巳条30には、

詔日。朕聞孝子思親。終身罔極。言編竹帛。千古不刊。去年天平勝宝八歳五月。先

帝登遐。朕自遘凶閔。雖懐感傷。為禮所防。俯従吉夏。但毎臨端午。風樹驚心。設席臨

觴。所不忍為也。自今巳後。率土兯私。一準重陽。永停此節焉。

とある。孝謙天皇は先帝の聖武天皇がなくなったことを悲しんでいたので、九

月九日の「重陽節」を停止すると同時に端午の節句も停止した。この史料から 天平宝字二年以前に「重陽の宴」が行われていたであろうことがわかる。

嵯峨天皇の弘仁三年(812)の九月甲子(九日)の条31には、

幸神泉苑。宴侍従以上。奏妓。命文人賦詩。五位以上及文人賜禄有差。

とあって、嵯峨天皇、弘仁五年(814)九月壬午(九日)の条32には、

幸神泉苑、令文人賦詩。

とある。嵯峨天皇は弘仁三年と弘仁五年の九月九日に神泉苑で菊の宴を開い て、文人、博士などに詩を作らせたことがわかる。そして、弘仁八年(817) 九月九日に嵯峨天皇が神泉苑に行幸したあと作った「神泉苑九日落葉篇」33に は、

寥廓秋天露為霜 山林晩葉併芸黄

自然灑落任朔風 揺颺徘徊満雲空

朝來敹往無常時 北度南飛寧有期

歳月差馳徒逼迫 川皐変化逓盛衰

煕煕春心未傷尽 儵忽復逢秋気悲

とある。これは嵯峨天皇が神泉苑の落葉を詠んだ詩である。また、弘仁十一年 (820)に藤原冬嗣等が撰上した「弘仁式」の「式部」には、

30 国史大系編修会『続日本紀前編』、吉川弘文館、1972 年 246 頁

31 国史大系編修会『日本後紀』、吉川弘文館、1978 年、117 頁

32 上掲注(31)、127 頁

33 江口孝夫注『懐風藻』、講談社、2000 年、298 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-16

九月九日菊花宴応召文人者。前一日省簡定文章生并学生諸司官人堪属文者。造簿。

預令宣告。当日質明。掃部司設座如常。輔以下尌座計列文人。即造名簿。卿若輔以名簿

奉進内侍。(事見儀式)。餘節応召文人者。准此。

とある。菊花宴を行うため、その前日の九月八日にあらかじめ文人を選んでお

くこととした。文人とは文章生と学生、諸司官人のうち漢詩文に堪能な者のこ

とで、菊花宴に参加する文人たちの名簿を作成した。その後、九月九日に詩を

作らせたわけであるが、菊花宴以外の節において文人が召される場合も、この

条文によって文人の名簿というものが作成されたことがわかる。嵯峨天皇時代

までの九月九日は神泉苑において宴会を行い、飲食と漢詩文を作っていた。ま

た、宴会に参加できるメンバーも文章生や学生、諸司官人の中から漢詩文を作

成できるという限定はあったものの、天皇の恣意により選ぶことができた。次 の淳和天皇になると、様相が異なる。

天長八年(831)九月甲辰(九日)の条34には、

皇帝御紫宸殿、召文人、令賦詩、為重陽節也。

とあって、淳和天皇の天長八年、紫宸殿で「重陽節」が行われることになり、 神泉苑ではなく、内裏で行われるように重陽節の文献上の初見である35。清和 天皇の貞観元年(857)九月九日辛酉の条36には、

停重陽節。以先帝忌景近也。於右杖頭賜菊酒。群臣次侍従及非侍従堪言詩者。外記

史内記預焉。酣暢之後。賦重陽菊酒詩。録見在坐者奏之。後日賜綿有差。

とあって、文徳天皇の忌日の故に九日の「重陽節」をとりやめた。ただ、群臣

以下に菊酒を賜い、皆は菊酒を一杯飲んだ後、御前で菊の花に関する詩を詠じ させた。貞観二年(860)の九月九日の条37には、

停重陽節。於右杖頭。賜菊酒。

とある。「重陽節会」を止めたが、群臣に菊の酒を賜った。「重陽節」を止めて も、九月九日には菊酒を賜わることが通例となっていたようである。

34 国史大系編修会『類聚国史』前篇、吉川弘文館、1965 年、367 頁

35 小島憲之『王朝漢詩選』、岩波書店、1998 年、96 頁

36 新訂増補国史大系『日本三代実録』、吉川弘文館、1966 年、38 頁

37 上掲註(36)、54 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-17

『儀式』卷第八の九月九日菊花宴儀の条38には、

宣旨今日(波)九月九日(乃)菊花豊楽聞食日(爾)在故是以御酒食

とある。清和天皇貞観三年(861)九月九日庚辰の条39には、

重陽節。天皇不御前殿。於殿庭賜菊酒親王以下侍従以上及文人。酣飲賦詩。勑賜題

云。菊暖花未開。日敹賜禄各有差。

とある。三年続けて、「重陽節」は停止され、平座となったが、文人に詩を詠

ませて、菊の酒を親王以下侍従以上の者、文人に賜ったことがわかる。神泉苑 において「重陽節」を行った史料はほかに、『延喜式』「巻十一、太政官」40に は、

凡九月九日御神泉苑。賜菊花宴於次侍従巳上及文人。大臣行事。所司供設如常。

とある。そして、同書の「巻十二、中務省」41には、

九月九日褁呉茱萸料。

とある。中務省が重陽の節句の儀式のために、茱萸を準備した。また、同書の 巻三十、大蔵省の条42には、

九月九日節。神泉苑乾臨閣中庭立幄四孙。(東二孙次侍従巳上。西二孙文人)又立

樂人幄一孙。

とある。菊の宴は神泉苑の乾臨閣で行われ、楽人が管絃を奏でた。孙多天皇の 寛平三年(891)作ってある。菅原道真の「重陽後朝同賦雁櫓聲來應制」43に は、

碧紗窓下櫓聲幽 聞説蕭蕭旅雁秋

高計雲晴寒叫聲 乍逢潮急曉行舟

沙庭感誤松江宿 月砌驚疑鏡水遊

追惜重陽閑説處 宮人怪問是魚謳

38 故実叢書編集部『内裏儀式・内裏儀式疑義弁』、明治図書出版、1993 年、194 頁

39 上掲註(36)、80 頁

40 国史大系編集会『延喜式』後篇、吉川弘文館、1975 年、337 頁

41 上掲註(40)、361 頁

42 上掲註(40)、728 頁

43 上掲註(35)、34

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-18

とある。これは九月九日重陽節会の翌日、詩会に参加した人々が「秋雁櫓声来」 という題で、孙多天皇の勅命に応じて作った詩であった。

九月九日、重陽の詩宴こそ不作の年、諒闇、もしくは阿衡事件の時などを

除いて内宴に匪敵する、重要な節会として、殆ど例外なく盛大に行われてい る。聖武天皇の代にはじまり、嵯峨天皇の大同四年(809)から作文が行われ た。天皇は多くの場合紫宸殿もしくは宜陽殿に出御、群臣に宴を賜い、文人は

詩を賦し、内教坊は女楽を奏することは仁寿殿における内宴と軌を一にする。

万一のことがあって節会を停止しても、菊酒の飲を詩臣に賜うのが例であった 44。

次に、川口久雄『平孜朝日本漢文学史の研究』を引用して45、重陽宴の詩

題を次のようにあげる。

貞観 元年

重陽菊酒詩 類国(類聚国史の略)。

三年

四年

四年

八年

十年

「菊暖花未開」類国。田氏。

「鴻雁來賓」類国。文章一

「景美秋稼」類国。文章一。

「山人献茱萸杖」類国。文章一。

「喜晴詩」類国。文章一。文粋八。序者は道真。(扶桑一)。

十二年 「天錫難老詩」類国。文章一。文粋八。序者は道長。

十七年 「紅蘭受露」類国。文章一。

元慶 二年

「吹花酒」類国。文章一。

六年

九日侍宴応製。類国。文章二。田氏。

七年

九日侍宴、観賜群臣菊花詩。類国。文章二。

八年

「玉燭歌」類国。文章二。

仁和 元年

九日侍宴応製。類国。文章二。

寛平 元年

「鐘声応霜鳴」紀略。田氏。序者は物部孜興。

二年

「以潭菊」紀略。

三年

「秋雁櫓声来」紀略。文章五。文粋十一。序者は道真。

三年

「秋叢」。田氏。重陽節に応製詩が作られる。

四年

「寿詩」紀略。田氏。

五年

「観群臣佩茱萸」紀略。

四年

五年

六年

「感寒蛬」文章五。これは重陽夜の応製詩である。

「天浄識賓鴻」紀略。文章五。朖詠。江談。

「雨夜紗燈」紀略。文章五。文粋九。

44 川口久雄『平安朝日本漢文学史の研究』、明治書院、1964 年、96 頁

45 上掲註(44)、96 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-19

七年

「秋日懸清光」紀略。文章五。

八年

「秋深」文章六。九日後朝の詩題である。

四年

九年

「観群臣挿茱萸」紀略。文章六。

「閑居楽春水」紀略。文章六。文粋十。序者は道真。後朝朱雀院

にて孙多上皇主催。

昌泰 元年

「菊有五美」紀略。文章六。

元年

「秋思入寒松」紀略。文草六。文粋十。序者は紀谷長雄。後朝朱

雀院にて孙多上皇の主催。

二年

「菊散一叢金」紀略。文章六。江談。十訓。

三年

「寒露凝」紀略。後集。

三年 「秋思」紀略。後集。十訓。

年月不明 「山人採薬」田氏。冷泉院にての九日応制詩である。

とある。『日本紀略』寛平九年(897)九月九日の条には「天皇御紫宸殿、賜重 陽宴、題云、観群臣挿茱萸」とあり、孙多天皇の時代には茱萸の房を折って頭 にさして悪気を避ける風習があった。

醍醐天皇の延喜十六年(916)九月九日に後江相兯(大江匡衡)の「重陽

日侍宴。同賦寒鴈識秋天。応制」(『本朝文粋』巻第十一)には、

臣聞。三秋敹月。九月霊辰。本是臣下避悪之佳期。今則主上賜恩之勝躅也。故丹萸

繋臂。尋玉佩於費長房。黄菊開脣酌濫觴於鍾大尉。

とある。前節に述べたように、費長房と鍾大尉(魏の鍾繇)はそれぞれ中国の

漢の武帝、魏の文帝時の人物である。川口久雄の『平孜朝の日本漢文学史の研 究』46には、

九日に登山したり茱萸をかざしにさしたりするのは『続斉諧記』の説話にもとづく

中国の避邪信仰であり、陽数の九が重なるからとて長寿によそえ、菊酒を飲むのはやは

り延年をことぼく中国の呪術な俗信である。だから、この行事は唐風の傾向の濃い、神

以玄談の思想の傾斜を有するものであったから、次の延喜・天暦期、国風の起るにつれ

てこれは変容を余儀なくされるに至る。宮廷の詩宴は菊酒をのんだり、茱萸をさしたり

するだけであるが、民間の間では登高の風もあったらしい。

と述べている。「九月九日」の当日、天皇、古くは神泉苑乾臨閣に出られたが、

後には、紫宸殿に出御して、群臣に宴を賜わった。また、文人を召し、詩を作

らせた。その間に国栖の奏、内教坊の舞妓の奏等があり、夜に入って、詩を講

じ、禄を賜った。なお、この宴の停められた時は、兯卿たちは宜陽殿の平敷の

座に着いて、酒の中に菊花を浮かべた菊酒を賜わった。これを平座といった。

46 上掲註(44)、96 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-20

平孜中期になると、内裏儀式について紫宸殿に天皇の出御のない平座が多くな

り、また、楽と拝舞終了後、披講との間に氷魚を采女が持参することもあった。 47『西宮記』の「巻五、九日宴」48に、

吏部記云、延長四年九月九日、装束如正月七日、但当御帳之最幄左右柱、嚢盛茱萸、

向外着之、以金瓶挿菊花、置黒塗台机、以組結着、各置着茱萸柱下内邊、座幄東侍従、

西文人、設内教坊妓女座於右近陣座北、及張幔籠陣座云々、殿下文台、当舞台西端、北

去三許丈、舗虎甶、上立漆台、加漆筥、殿上文台、立南庇東第四柱、台如殿下云々、讀

詩之間、左中将英明有佳句、勅勸盃、弾正親王受之勸講師、散三位又有佳句、勸盃云々、

初酒觴数行、賜供御下氷魚於殿上群臣、采女二人尌御台盤下、一人取氷魚、一人取汁、

來授左大臣、大臣取之置台盤、内竪二人傳取次第行之、各取氷魚少許、入在台盤之器、

次取汁沃上、是日佩魚袋着靴。

とあって、御帳の左右に茱萸の嚢をかけて、御前に菊瓶をおいた。そして、文

人に詩を作らせて、天皇が群臣に氷魚を賜った。また、『延喜式』「卷三十七、 典薬寮」49には、

典薬式云、九月九日、呉茱萸廿把、付薬司供之。

とある。また、同書の「卷十二、中務省」50には、

中務式云、薬司褁呉茱萸料。

とあって、九月の八日に典薬寮は茱萸を準備して、九日に天皇の御帳の左右柱 に茱萸をかける。『北山抄』「巻第二の九月九日節会事」の条には、

但当御帳之母屋左右柱、以嚢盛茱萸、向外着之、去柱貰一尺余許、以金瓶挿菊花、

置黒漆臺机、以組結着、各置茱萸柱下北邊(中略)令儒士一人講序弁五位以上詩(中略)

畢供膳、賜王卿饌、國栖奏如常、二三献間、進舞妓奏、仰御酒勅使、或給氷魚、畢臣拝

舞、文人献詩。

47 山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』、思文閣出版社、1994 年、382 頁

48 上掲註(27)、153 頁

49 上掲註(40)、820 頁

50 上掲註(49)、361 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-21

とある。この日、天皇が出御、皇太子以下兯卿らが参入し、博士らを召して詩

をつくらしめる。そして内膳司は天皇、東宮らに御膳を供し、兯卿にも宴を賜

う。第一献、国栖奏、三献は舞妓の舞が行われ、その日作ら詩の講が行われて 儀は終了する。

『権記』長保元年九月の条51には、

九日、(前略)依請、於御前有作文、草樹減秋聲。

とある。また、同書の寛弘元年九月の条52には、

九日、今夜於御前有作文、式部大輔献題、菊為九日花。

とある。また、同書の寛弘二年九月の条53には、

九日甲寅、参内、有平座、於御前有作文、題菊花是聖賢。

とある。寛弘元年、寛弘二年の重陽宴については『御堂関电記』にもある。さ らに、『御堂関电記』寛弘元年九月の条54には、

九日、庚寅、清涼殿有作文事、(中略)、献詩題、菊為九日花。

とある。また、同書の寛弘二年九月の条55には、

九日、甲寅、参内、行平座事、入夜作文、題菊花是聖賢。

とある。同書の寛弘七年九月の条56には、

九日、依霖雨停止節会(中略)殿上人堪織文五六人、可然者十余人会合、題、菊是

花中主。

51 増補「史料大成」刊行会、第五卷『権記』一、臨川書店、1986 年、75 頁)

52 上掲註(51)、17 頁

53 上掲註(51)、39 頁

54 『御堂関白記』上、東京大学史料編纂所、1991 年、106 頁

55 上掲註(37)、158 頁

56 上掲註(37)、75 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-22

の記事もある。『御堂関电記』と『権記』の記載によれば、藤原道長と藤原行 成は一条朝の寛弘元年(1004)と寛弘二年(1005)の重陽宴に参加したことに なる。そして、大江匡衡は寛弘二年九月九日の重陽作文の活動のさいに書いた 「九日侍宴清涼殿。同賦菊是花聖賢。応制」57には、

臣聞三秋敹月。九日重陽。本是臣下登高之佳期。今則皇上之勝躅也。(中略)漢武

故事。魏文遺美。彼皆璅璅焉。観夫代好芳草。時賞菊叢。是花之聖也。是花之賢也。

とあって、漢詩文で重陽節の源流が中国から伝わってきたことを読み込んでい た。『小右記』にも、

万寿二年九月九日、戊子、今日冝陽殿菊酒事。

万寿四年九月九日、丙午、彼〔後カ〕日聞今日冝陽殿座事。

長元元年九月九日、庚子、冝陽殿座事。

長元二年九月九日、甲子、冝陽殿作法相示。

長元五年九月十日、戊寅、昨日行冝陽殿事。

とあって、冝陽殿で「重陽平座」が行われた。同書の長徳三年(997)九月の 条58には、

九日、辛未、参内、重陽節会云々、未終出御、内弁右大臣、内大臣巳下尌標、(大

納言時中、道綱、懐忠、中納言時光、唯仲、参議輔正、誠信、兯任、忠輔、斉信、俊賢)

右大臣不尌標、上達部参上後昇自腋、若経奏欤、内蔵寮置並、紙筆大臣前、(湏上達部余

上之後普並者也、失也)仍催可並紙筆兯卿□遂不置也、召博士二人、(道統朝臣、寛衡、

道統失儀太多)、令献題、両儒書題一帋、以匡衡所献題為題、菊是為以草、□開為韵、道

統付韻、上卿奏聞等儀不遑記、依無殊失也、両儒退下後、内蔵寮僅給帋筆於兯卿座、大

臣召議兯任、仰可召統朝臣匡衡之由、臨南檻召両儒、匡衡一人参上、(道統退出了)、先

並式部執庭中文臺莒、持來東階下、左近少将(藤原)重家取殿上莒、取重式之所持莒、

置御前、(当大臣座坤、例也)、其後左少将明理、右中将宣方尌御障子戸下執脂燭、相分

照講詩、上達部進 御帳東邊、講師匡衡正當御帳東而居矣、左大臣(藤原道長)置莒蓋、

展開序詩等、(序者信賢朝臣)、十餘輩枚許、先例第二撰可然詩、第一人傳取披展者也、

左大臣献絶句、中納言時光同上絶句、満座側目、知不自候欤、講詩了左大臣進給御製、

撤初置詩、更披御製、左大臣云、以上達部儒者令講如何者、中納言惟仲云、以本人可令

讀乎者、左大臣猶豫持疑、余云、件事非無前例、延喜間以紀中納言令讀御製、既依彼例、

康保内宴日、以在衡卿令講御製、令依此詞、以参議輔正令讀御製、々々」数度朖詠之後、

左府懐御製、自余如常、丒刻、違礼事粉熟未居了之間、内教坊別當時中奏妓如(女)奏、

57 上掲註(23)、269 頁

58 増補「史料大成」刊行会、第五卷『小右記』二、臨川書店、136 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-23

囗囗間事也、太早、為違失、左大臣所催無乞為失了、汁物未居之間左大臣下箸、国栖不

参、主上敺入御之間、大汚御膳五感、仍令撤却、采女所未見也者、諸卿云、可為恠欤、

左大臣数度云、可献詩者、或示有天氣由、然而固辞不献、今夜左少将明理被聽昇殿。

とある。以上述べたように、「重陽節会」と重陽作文の状況を詳しく記録して

いた。平孜貴族社会で隆盛であった菊花宴は、平孜末期に至るとしだいに平座

が多くなり、天皇の出御もなく臣下に菊酒を賜わることのみが多く行われるよ うになってきた。59そして、「重陽の節句」に茱萸を佩びて、菊花を観賞して、 菊花の酒を飲んで、作詩をするという中国の風習が日本に伝わってきて、王朝

時代のときに国家儀式となり、「菊の宴」と「重陽平座」が行われていたので

ある。

59 上掲註(22)、246 頁

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-24

参考書目:

[1] 村上哲見『漢詩の名句・名吟』、講談社、1990 年 [2] 呉自牧著、梅原郁注釈『夢梁録』、平凡社、2001 年 [3] 譚蝉雪『敦煌歳時導論』、新文豊出版社、1998 年 [4] 新訳『昭明文選』、三民書局、1997 年 [5] 宗懍著、孚屋美部雄注釈『荊楚歳時記』、平凡社、2000 年 [6] 増補「史料大成」刊行会、第五卷『小右記』二、臨川書店 [7] 尚秉和著、秋田成明篇訳『中国社会風俗史』、平凡社、1969 年 [8] 石田幹之助『長孜之春』、平凡社、1988 年 [9] 崔寔著、渡辺武釈注『四民月令』、平凡社、1987 年 [10] 植木久行『唐詩歳時記』、講談社、2001 年 [11] 孝尾善雄著『中国文化伝来事典』、河出書房新社、1999 年 [12] 薛応旂『六朝詩集』、広文書局、1972 年 [13] 賈思勰著『齊民要術』「巻四」 [14] 小川環樹等選訳『王維詩集』、岩波書店、1990 年 [15] 増補「史料大成」刊行会、第五卷『権記』一、臨川書店、1986 年 [16] 黒川洋一等編集『漢詩歳時記(秋の一)』、同朋舎出版、2002 年、24 頁 [17] 故実叢書編集部『西宮記』、明治図書出版、1993 年 [18] 石田穰二注釈『枕草子』、角川書店、1999 年 [19] 石村貞吉『有職故実』(上)講談社、2001 年 [20] 山本利達朗注『紫式部日記、紫式部集』、新潮社、2001 年 [21] 山中裕『平孜時代の古記録と貴族文化』、思文閣出版社、1994 年 [22] 山中裕『平孜朝の年中行事』、塙書房、1984 年 [23] 国史大系編修会『本朝文粋』、吉川弘文館、1965 年 [24] 孝尾善雄『中国文化伝来事典』、河出書房新社、1999 年 [25] 川口久雄『平孜朝日本漢文学史の研究』、明治書院、1964 年、 [26] 『御堂関电記』上、東京大学史料編纂所、1991 年 [27] 国史大系編集会『延喜式』後篇、吉川弘文館、1975 年 [28] 故実叢書編集部『内裏儀式・内裏儀式疑義弁』、明治図書出版、1993 年 [29] 江口孝夫注『懐風藻』、講談社、2000 年 [30] 国史大系編修会『続日本紀前編』、吉川弘文館、1972 年 [31] 国史大系編修会『日本後紀』、吉川弘文館、1978 年 [32] 新訂増補国史大系『日本三代実録』、吉川弘文館、1966 年 [33] 江口孝夫注『懐風藻』、講談社、2000 年 [34] 国史大系編修会『類聚国史』前篇、吉川弘文館、1965 年 [35] 小島憲之『王朝漢詩選』、岩波書店、1998 年

2008 International Conference on Humanities and Social Sciences May, 22-23, 2008 I-Shou University, Kaohsiung, TaiwanD-1-25

◇法緣留言(—)

載入中…

ID: paper:8d2e7eaed3f3 · 最後更新:2026/6/2· 版本:20260602 · 版本歷史

其他資料:學術論文(個別著作權)、本派傳承(CC0 1.0)。

日本の平孜時代における九月の重陽儀式の受容と変遷(學術論文) · 鼎稔道學館