明清期の瘟神と医神
27 明清期の瘟神と医神 二階堂 善 弘 The Gods of Plague and Medicine in the Ming and Qing Dynasties NIKAIDO Yoshihiro This article explores the gods of plague and medicine in the Ming and Qing dynasties. With regard to the gods of plague, many are known throughout China, including Wangye (王爺) in Fujian and Taiwan, Yanguang Niangniang (眼光娘娘 ) in the north, as well as Banchen Niangniang (斑疹娘娘), Tainhua Niangniang (天 花娘娘), and other niangniang who drive disease. The numerous Yaowang temples across mainl
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明清期の瘟神と医神
二階堂 善 弘
The Gods of Plague and Medicine in the Ming and Qing Dynasties
NIKAIDO Yoshihiro
This article explores the gods of plague and medicine in the Ming and Qing
dynasties. With regard to the gods of plague, many are known throughout China,
including Wangye (王爺) in Fujian and Taiwan, Yanguang Niangniang (眼光娘娘 )
in the north, as well as Banchen Niangniang (斑疹娘娘), Tainhua Niangniang (天
花娘娘), and other niangniang who drive disease. The numerous Yaowang temples
across mainland China attest to the belief in these gods. Concerning rituals, the
sending off of the royal ship (送王船) is performed to expel epidemics. With regard
to the gods of medicine, the kings of medicine (藥王) include famous doctors such
as Bian Que (扁鵲), Sun Simiao (孫思邈), Wei Cicang (韋慈藏), and Hua Tuo (華
陀). Emperor Baosheng of Fujian was, for example, a well-known doctor who later
became a god of medicine. Fictional characters also display traits of gods, such as
Lu Yue (呂岳), who appears in the novel Fengshen Yanyi [封神演義] and resem-
bles a plague god, as well as Marshal Gao (高元帥) and Marshal Zhang (張元帥) of
Marshal God, who resemble the gods of medicine.
キーワード:民間信仰(Folk Religion)、王爺(Wangye)、薬王(King of Medicine)、
娘娘神(Chinese Goddess)、元帥神(Marshal Gods)
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はじめに
中国の民間信仰の世界においては、疫病や蝗害などに抗するため、その害を退ける神の信仰
りゅう の害を退治するのには劉
もう 猛
おう 将軍があり、疫病に対するのには王
や 爺
や
などの神々がある。またこれとは別に、医薬の神に対する信仰がある。すなわち神 おう 王
などの医神を重んじられた。現在でも、これらの神を祀る将軍廟や薬
ほ 、保
せい 生
たい 大
てい 帝
いなご が発展した。たとえば、蝗 てん 天
か 花
にゃん 娘
にゃん 娘 やく 農大帝や薬
王廟などが各地に残されている。
こういった神々の信仰が発展したのは、当時の人々がいかに疫病や蝗害などの災害を恐れて
いたかを示すものであろう。また同時に、しばしば当時の人々がこれらの害に苦しめられてい
た事実を現すものと考える。
一方でこれらの神々は、関帝や二郎神などのような全国的に信仰が展開する神ではなく、か
なり地域性が強い。たとえば、保生大帝や王爺は福建や台湾に信仰の範囲が限られている。
本論は主に明
清期に発展した瘟疫の神と医薬の神の状況について考察し、民間における医薬
みんしん
及び疫病に関する考え方を探るものである。
1 瘟疫神の系譜
『中国民間諸神』においては、神々はその職能に応じて分類されている1)。たとえば丁編には
東嶽大帝などの山の神、それに媽祖などの海の神が収録されている。瘟疫の神や医薬の神につ
いても、庚編に瘟神、痘神の項目があり、医王や薬王も、同じく庚編に収録されている。
『中国民間諸神』の瘟神の欄には、主に六朝時代からの瘟神の伝承が載せられている。六朝期
から「五瘟使者」という瘟神があったことは、すでに多くの指摘がある。筆者も趙公明の考察
を行った時、この五瘟使者についてふれている2)。
趙公明自体は、非常に来歴の古い神である。呂宗力氏らの指摘するように、六朝期の『捜
神記』や『真誥』にすでにその名は見えている。その後は五名一組となった瘟神の一つと
して知られている。『三教捜神大全』には、この瘟神についても「五瘟使者」として別に記
録がある。それによれば、五瘟使者の名は以下の通りである。
春瘟 張元伯 夏瘟 劉元達 秋瘟 趙公明 冬瘟 鍾仕貴 中瘟 史文業
1) 呂宗力・欒保群『中国民間諸神』(河北教育出版社、2001年)。
2) 筆者『道教・民間信仰における元帥神の変容』(関西大学出版部、2006年)202-203頁。
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趙元帥がこれらの瘟神から発展した神であることは間違いない。ただ、この瘟神としての
趙公明と後の「趙元帥」とは、その性格において甚だ異なっており、「同名異神」と言えるほ
ど違う性質を持つものとなっている。なお、これらの神は『武王伐紂平話』にも登場して
いる。なお先に見た雷部の張天君、すなわち張使者の名前は「張元伯」であったが、ここ
に見られる張元伯がその源流である可能性もある。また、これらの神の名の多くは恐らく、
三国六朝期に活躍した人物の名前を変じて作られたものであると思われる。それは「鍾士
季」の名が、すなわち三国魏の武将である鍾会の姓と字そのままであることからも窺える。
すなわち、瘟疫をふりまく神は張元伯・劉元達・趙公明・鍾仕貴・史文業の五名の使者である。
これらの神の名称は、文献によって若干異なっている。なお、『三教捜神大全』の「五瘟使者」
の項目には次のようにある3)。
昔隋文帝開皇十一年六月、内見五力士現於凌空三五丈、於身披五方袍、各執一物。一人執
杓子并𤮴子、一人執皮袋并剣、一人執扇、一人執錘、一人執火壺。帝問太史居仁曰、此何
神、主何災福也。張居仁奏曰、此五方力士、乃天上為五鬼、在地為五瘟、名曰五瘟。春瘟
張元伯、夏瘟劉元達、秋瘟趙公明、冬瘟鍾仕貴、総管中瘟史文恭。如現之者、主国民有瘟
疫之疾、此為天行時病也。帝曰、何以治之、而得免矣。
隋の文帝の時代、突如巨大な力士が現れ、帝がその詳細について張居仁に尋ねたところ、五瘟
使者だと答えたというものである。これらの神々は、瘟疫を流行させるものとして恐れられて
いた。
なお鍾士季が三国時代の武将である鍾会を指すことはよく知られている。瘟神の人員が『洞
淵神呪経』に挙げられている鬼王と重なることについても、すでに指摘されている4)。
『洞淵神呪経』では、鍾会のほか歴史上の人物が鬼王となって登場し、様々な災厄をもたらす
ことを説く5)。たとえば巻七に次のように書かれる。
3) 無名氏『三教源流捜神大全』(中華書局、2019年)136頁。
4) 山口建治「唐代瘟神「五帝」考 ― 御霊信仰の源流 ― 」(『年報非文字資料研究』10号・神奈川大学非
文字資料研究センター、2014年)217-232頁。
5) 『洞淵神呪経』については『正統道蔵』洞玄部本文類の『太上洞淵神呪経』を用いた。データについて
は、関西大学アジア・オープン・リサーチセンター(KU-ORCAS)に所蔵のものを使用している。また
『洞淵神呪経』については、菊地章太『神呪経研究 ― 六朝道教における救済思想の形成』(研文出版、2009
年)を参照のこと。
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自大漢之後、有五通大鬼。鬼名王翦、白起、韓章、楽陽、楚狂。又有郝景、女媧、祝融三
万九千人,各領八億万人。
せつ 秦の武将であった王翦や白起が含まれ、さらになぜか楚狂接
よ 輿
も含まれる。そしてまた、女媧
や祝融の名も挙げられている。巻七には続けて次のように説かれる。
国土有大鬼主鄧艾、鍾士季、趙山、王莽、李敖、杜周、劉斗烏、王離、夏侯嬰、蒋公琰、
南陽葉公里、夏檀支、蕭何、申屠伯、韓信、田進、梁洪、高沛、孫温、司馬迥、劉元達、
有此大鬼、主令世人。或有祠祀武帝、文王、世問供養、立祠不絶。各各有兵馬、為天下人
作祟、祟病殺人、年年月月、行千万種病。
鍾会はここで鄧艾らとともに挙げられ、さらに王莽や韓信など多くの歴史上の人物と並ぶ。と
はいえ、こういった人選がどういう基準で行われているかは不明である。志半ばで亡魂となっ
た者であれば、それは怨霊としての意味があるのかもしれないが、そうでもないように思える。
これらの記載は『真霊位業図』において、地獄の鬼官に歴史上の人物が列せられる現象とよ
く似たものである。戦において敗死した怨霊的な人物が多いが、しかし一方で、そういう者ば
かりでもない。ただおそらく、五瘟使者の氏名は、こういった記載からの転用であろうと考え
られる6)。
もっとも、これらの古い瘟神は、明清期になるとほとんど顧みられなくなる。なかでも趙公
明は、現在ではほとんど財神としか認識されていない。『封神演義』を見ても、趙公明は財神の
役職でもって封じられ、瘟疫の神は別に呂岳などが当たることになる。
ただ、現在台湾などで祭祀される五福大帝は、この五瘟使者と同じ名だとされる。或いは五
毒大神などとも称される。しかし、これは後に付会されたものであると考える。
また仏典のひとつに『却温黄神呪経』があり、「却温神呪」はよく知られている7)。ここでの
「温神」は、すなわち瘟神である。経典には「当三七遍調此呪経。病毒五温之病、並皆消滅」と
いう字句が見られるが、この「五温」とは、まさに「五瘟使者」のことを指すものと思われる。
6) ここには鍾士季と劉元達の名が見える。趙公明は、趙山から変わったものか、或いは三国六朝の人物名
を適宜改変したものか。たとえば三国時代の趙雲の姓と徐晃の字を組み合わせた可能性もある。
7) 教学研究委員会編「「却温神呪」を読論する効果 ―『仏説却温黄神呪経』訳注 ― 」(『臨済宗妙心寺派
教学研究紀要』 5 号・臨済宗妙心寺派教化センター、2007年)73-89頁。
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2 船で送る瘟神
現在、最も広く知られている瘟神は王爺であると考えられる。王爺自体は福建や台湾のみに
限られる神で、いまはむしろ台湾における儀礼でよく知られている8)。台湾では清代から現代に
かけて信仰が発展した。その儀礼は「送王船」と呼ばれるもので、瘟神である王爺を船に乗せ、
その王船を焼いてあの世に送り返し、疫病を祓う儀式である。また、王船を海に流すこともある。
台湾では王船の儀式はだいたい数年に一度行われる。各廟でその年にはばらつきがある。た
とえば、有名な屏東東港の東隆宮における温王爺の祭りは、三年ごとに行われる。
図 1 屏東東隆宮
王爺はひとりだけの神ではなく、李王爺、池王爺、呉王爺、朱王爺、范王爺など、様々な姓
を持つ王爺がある。俗に三百六十名の王爺があるとされる。また千歳という呼び方もある。廟
では、三名の王爺を祀る時は三府千歳とし、五名の王爺を祀る際は五府千歳と称したりする。
台南の南鯤鯓代天府は広大な敷地と持つ廟としてよく知られている。
ただ、現在の台湾で王爺が瘟神として扱われているかというと、それについてはやや疑問を
感じざるを得ない。この点については少なくない研究者も疑問を抱いているようである 9)。個人
8) 王爺についての論著は枚挙にいとまがないが、ここでは洪瑩発『代天宣化 ― 台湾王爺信仰与伝説 ― 』
(博揚事業文化公司、2017年)を主に参照した。
9) たとえば三尾裕子氏は現在の王爺の信仰にあまり瘟神としての性格が見られないことを指摘する(三尾
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的には、王爺はむしろ城隍神などの神々に性格が近いように感ずる。
シンガポールやマレーシアにおいては、九皇大帝の祭祀である「九皇船」が行われる。これ
について筆者はこう述べた10)。
一方で、李豊楙氏は台湾の王爺と九皇爺の類似性について指摘する。李氏は、台湾で広く
行われている王爺の「送王船」行事と、東南アジアで行われる「九皇船」行事の類似に注
意し、もともとマレーシアでも王船を作っていたものが、九皇船に変わってしまったとい
うことに注目する。実際に、いまはシンガポールやマレーシアでは王船の行事を見ること
はほとんどなく、この九皇船の行事に置き換わってしまっているものと推察される。
文中でもふれた通り、李豊楙氏はもともと王船の行事であったものが九皇大帝の行事に置き換
わったとする11)。九皇大帝が瘟神ではないことは確かで、これは王爺の信仰から派生して別の神
に置き換わった事例として考えられる。ただ、送られる神は王爺でなくてもよいわけである。
これは興味深い事例である。
王爺の源流のひとつが温元帥であることについては、すでに康豹氏による指摘がある12)。温元
帥は、忠靖王と呼称され、道教においては四大元帥のひとつとされる有名な神である13)。東岳大
帝の配下とされ、むしろ冥界を司る神だと考えられる。先に筆者は王爺が城隍神に近いとふれ
たが、王爺の性格上、むしろ東岳大帝配下の冥界神という性格が残っているのではないかと考
える。
浙江の温州においては、送王船と類似する祭祀が行われていた。その対象であったのは、忠
靖王温元帥である。温州で行われたのは「搜耗」と「送耗」と呼ばれる行事である14)。このう
ち、王爺の巡遊にあたるものが搜耗であり、送王船にあたるのが送耗である。これは紙で造っ
た大きな船を水上に浮かべて焼く行事であり、王船とはやや異なる。むしろ日本の精霊流しの
祭礼に近いかもしれない。
このことから、むしろ王船についてはもともと忠靖王、すなわち温王爺に固有の行事であっ
裕子『王爺信仰の歴史民族誌:台湾漢人の民間信仰の動態』2004年東京大学リポジトリ https://repository.
dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ 16-17頁)
10) 筆者『東南アジアの華人廟と文化交渉』(関西大学出版部、2020年)29頁。
11) 李豊楙『従聖教到道教 ― 馬華社会的節俗、信仰与文化 ― 』(台大出版中心、2018年)210-238頁。
12) 詳しくは康豹(Paul R. Katz)『台湾的王爺信仰』(商鼎文化公司、1997年)参照。
13) 温元帥については、前掲筆者『道教・民間信仰における元帥神の変容』189-200頁参照。
14) 潘陽力「近現代温州的疫災与民間信仰」(『温州職業技術学院学報』第20巻 1 期、2020年)36-37頁。
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たものが、他の王爺に広がっていたのではないかと推察する。さらにその役割が、東南アジア
においては九皇大帝に変わっていったのではないだろうか。この場合、中核となる「瘟神を送
る」という点はかなり薄れ、船を燃やしたり放流したりすることがむしろ中心になってしまっ
ているようだ。
3 疫病を祓う娘娘
か 霞
げん 元
くん 君
たいざん
(泰
山娘娘)を主とする娘娘信仰の影響が大きい。
へき 河北や山東など中国の北方では、碧 にゃんにゃん 娘
娘 とは中国の民間信仰で祭祀される女神のことである。古来の神々でも、女神の場合は多
せい く娘娘と称される。たとえば、西
おう 王
ぼ 母
じょ は「王母娘娘」、女
か 媧
きゅう は「女媧娘娘」、 九
てん 天
げんにょ 玄
女は「玄女
娘娘」などと呼ばれることが多い。
ただ、明清期に発展した娘娘は、これらの古来の女神とはまた異なるものである。また地域
へき 性が高い。現在の北方の多くは三娘娘の祭祀が中心であり、碧
か 霞
げん 元
くん 君
がんこう
し 光娘娘、子
そん 孫
、眼
娘娘の
三柱の娘娘を祀る。眼光娘娘は眼病を治す神で、子孫娘娘は子授けの神である。
これとは別に五娘娘を祀る場合もある。北京郊外の妙峰山の娘娘廟本殿には、碧霞元君、眼
光娘娘、子孫娘娘、斑
疹娘娘、送生娘娘の五娘娘を祀る。
はんしん
図 2 妙峰山廟の斑疹娘娘と子孫娘娘
このうち病気に係わる神は、眼光娘娘と斑疹娘娘である。北方では、眼病を治す眼光娘娘の
信仰はかなり強い。数多くの娘娘廟で見かけるものである。斑疹娘娘は皮膚に係わる病気に対
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処する女神である。このほかに、天花娘娘、またの名を痘
疹娘娘があるが、これは天然痘を退
とうしん
治する神である15)。
澤田瑞穂氏の記すところによれば、かつて北京の蟠桃宮には数多くの娘娘神が祀られていた
が、ここには、王母娘娘、碧霞元君を中心として、脇には眼光娘娘、斑疹娘娘、痘疹娘娘など
の神が祀られていた16)。
清代になると、三娘娘が三体で祀られることから、これが『封神演義』の三娘娘と混同され
うん ることが多くなる。『封神演義』に登場する三娘娘は、雲
しょう 霄
けい 娘娘、瓊
しょう 霄
名で、三霄娘娘と称される。三人は姉妹で、趙公明の妹である。
へき 娘娘、碧
しょう 霄
娘娘の三
廟によっては、明らかに碧霞元君、眼光娘娘、子孫娘娘の像であるにもかかわらず、雲霄、
瓊霄、碧霄と見なしているところもある。眼光娘娘が眼を、子孫娘娘が子どもを抱えていると
いう、明らかな像の差異にもかかわらず、三霄娘娘とされてしまうことは問題ではあるが、こ
れも『封神演義』の影響の大きさを物語るものであろう。
4 薬王廟の神々
薬王廟は、中国大陸のあちこちで見られる廟である。独立の廟というより、関帝廟や娘娘廟
に付設される場合が多い。
へん 先にふれた北京妙峰山にも、薬王殿がある。ここでの薬王は扁
じゃく 鵲
であり、いまでも扁鵲の像
を祀る。
『中国民間諸神』によれば、薬王と称される神は三神がある17)。ひとつは扁鵲。扁鵲は古代の
伝説の名医で、様々な病気を治癒したという。『史記』にもその名は見えるが、活躍した年代は
いまひとつ明確でない。
そん もうひとつは、初唐の頃の道士、孫
し 思
ばく 邈
である。こちらは実在の名医であり、しばしば皇帝
に召されても応じなかったという。『千金要方』などの著作にても広く知られている。宋の徽宗
の時に妙応真人の号を与えられたとされる。 ぞう 蔵
い もうひとつは韋
じ 慈
である。こちらは扁鵲に比してはやや知名度が低いかもしれない。唐の
則天武后の頃の人であるという。やはり名医であったとされ、多くの伝説が残っている。
概して名医の伝説が残されている人物は、薬王廟において祀られることが多い。扁鵲や孫思
か だ
とうほう
ちょう
ちゅう
けい
邈のほか、華
陀、董
奉、 張
仲
景
などである。
15) 奥村義信『満洲娘娘考』(第一書房、1982年再刊)181頁。
16) 澤田瑞穂『中国の民間信仰』(工作舎、1982年)44-45頁。
17) 前掲呂宗力・欒保群『中国民間諸神』435-437頁。
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図 3 大石橋の薬王殿に祀られる華陀・孫思邈・李自珍・扁鵲
華陀については、これも実在の名医であるが、いまはむしろ『三国演義』の故事で知られて
いるかもしれない。
『三国演義』においては、関羽が矢傷受けて負った毒を、華陀が治療する話が非常によく知ら
れている18)。
方巾闊服、臂挽青囊。自言姓名、乃沛国譙郡人、姓華、名佗。字元化。因聞関将軍乃天下
英雄、今中毒箭、特來医治。(略)公飲数盃酒畢、一面仍与馬良弈棋、伸臂令佗割之。佗取
尖刀在手、令一小校、捧一大盆於臂下接血。(略)佗乃下刀割開皮肉、直至於骨、骨上已
青。佗用刀刮骨、悉悉有声。帳上帳下、見者皆掩面失色。公飲酒食肉、談笑弈棋、全無痛
苦之色。
華陀が矢傷を治療している時、関羽は馬良と碁を打っていた。骨を削るような治療であったに
もかかわらず、関羽は普段と変わらぬ態度であり、この様子には華陀も驚いたという話である。
ただこれはすでに指摘されている通り、史実とはやや異なったものである。関羽の臂を治療
したのは別の医者であり、華陀ではない。『三国演義』では、その後曹操の頭痛を治療しようと
した華陀が、疑われて獄に下された話が描かれているが、こちらは史実に基づいた話である。
18) 『三国演義』第七十五回(上海古籍出版社、1989年)973-974頁。
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り さらに、もうひとつ薬王殿に祀られることが多いのが、『本草綱目』の著者である李
じ 時
ちん 珍
であ
る。李時珍は、やはり名医として知られる人物である。明代の人物であり、薬王とされるのは、
おそらく清代になってからである。
5 保生大帝と神農
ご 福建地域及び台湾で広く信仰される医神は、保生大帝である。保生大帝は名を呉
とう 夲
といい、
漳州の名医で、伝承では宋代の人物とされている。
図 4 マラッカ保生大帝廟
保生大帝については、台湾台北の保安宮が広大な廟として有名である。また台北三大祭りの
行われる廟でもある。この保生大帝については、筆者は以前別の著作において、その来歴を考
察したことがある19)。
保安宮の主神は保生大帝である。その信仰圏は福建においてはそれほど広くはない。ただ
台湾においては移民がその廟を数多く建設した結果、全土で信仰される神となった。台湾
にはこの台北保安宮の他、台南学甲鎮の慈済宮、台南市興済宮、高雄湖内長寿宮・普済宮・
慈済宮など、由来の古い廟が数多く存在し、台湾全土では、二七三座の廟があるとされる。
19) 筆者『アジアの民間信仰と文化交渉』(関西大学出版部、2012年)175-176頁。
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台湾全土で比較すると、南方、特に台南・嘉義両県にその廟が偏在している傾向があるも
のの、台湾でももっとも著名な神の一つでもあることは確かである。またシンガポールの
天福宮などにおいても祀られている。保生大帝は福建地方の医神として著名な存在である。
伝によれば、保生大帝は姓を呉、名は夲、字は華基、号は雲東。また大道公・呉真人・呉
真君・英恵公などとも呼ばれる。『続修台湾府志』によれば次の通りである。(略)これら
の史料によれば、保生大帝・呉夲は、宋の太平興国四(979)年に生まれ、医術を修めて人
を救い、景祐二(1035)年に亡くなった後、祭祀されて神となったとのことである。生前
名医であったことから、医術の神として盛んに信仰されたとされる。また福建省同安県の
出身であり、地方神としての特色が強い。
その信仰は、東南アジアのシンガポールやマレーシアにも広がっている。ペナンやマラッカに
は、あちこちに保生大帝廟があり、医薬の神として祀られている。
ただ、保生大帝は薬王と組み合わせて祀られる例は少ないように思われる。保生大帝廟では、
台北保安宮がそうであるように、後部に神農を祀ることが多い。
神農は有名な三皇のひとつであり、そもそも薬の発明者であることから、医薬の神としても
広く祀られる。しかし、民間信仰においてそれほど信仰は強くはない。
せん 台湾の三重にある先
しょく 嗇
きゅう 宮
は、「神農大帝」を主神として祭祀する。しかし、そこでの扱いは
むしろ農業神としてのものである。そのため呼称も「五穀先帝」というものであった。医薬の
神としては、むしろ保生大帝廟に併祀されるほうが多いかもしれない。
神農はまた日本でも医薬の神として祀られる。東京湯島の湯島聖堂の神農廟がよく知られて
ど いる。また、大阪道
しょう 修
まち 町
の少彦名神社は、日本の医薬の神である少彦名命を祀るとともに、神
農も祀る。近くの住民からは「神農さん」とも呼ばれている。この地区一帯は、いまでも薬品
関連の会社などが多く、「薬の町」として知られている。
6 趙公明と呂岳
趙公明は、先に見たように五瘟使者のひとりとして、瘟神の性格を持つものであった。しか
し、現在の廟においては、趙公明は専ら財神として扱われ、財神殿に祀られるのが一般的であ
る。清代以降、関帝と趙公明を武財神とし、比干を文財神とし、この三柱の神に財富を祈願す
ることが標準になっていく。
38
この問題については、すでに多くの研究者による分析がある 20)。六朝期には、そもそも財富を
司る神があるという意識自体が希薄であったと考えられる。呂威氏の指摘によれば、民間信仰
において財神が信奉されるようになったのは、北宋の時期であるとされる21)。
古い財神としては、増福相公として祀られる李
がある。
り き
そ 詭祖
これは、北魏の県令であった人物であるが、死後その徳が讃えられ、神となった。いまでも
財帛星君といえばこの神を指す。『三教捜神大全』にもその名は見えている。この神は、唐代に
は財神に封ぜられたとある。またもうひとつは、五顕財神であり、こちらも来歴の古い神であ
る。おそらく財神として扱われたのは、宋代以降のことと考えられる。
ただ、これらの神々よりも、唐代において財富の神として認識されたものはあったと考えら
れる。それは、仏教の毘沙門天と大黒天である。
この両神は、日本では七福神に含まれる。日本の人々からすれば、この両神が福の神、すな
わち財神の性格を有することは理解しやすいと考えられる。しかし、中国において毘沙門天は
四天王のひとつとして扱われ、さらに大黒天はほとんど仏寺で見られない神格となっている。
そのため、その性格についてもあまり理解されていない。
毘沙門天はインドの財神クベーラが伝来したものとされる。すなわち、もともと財神の性格
を有していた。大黒天はマハーカーラ神が源流であり、自在天の化身であるが、これも性格が
やや変じて財神の性格を持つに至っている22)。
そして財神大黒天が変じて、財神趙公明となった可能性については、澤田瑞穂氏がすでに指
摘している23)。宋代以降、趙公明の姿は黒面に鞭を持ち、黒虎に乗るというものであるが、これ
は五瘟使者のどの姿にも一致しない。すなわち、趙公明は澤田瑞穂氏が述べるように「同名異
神」に近いものとなってしまっている24)。
そして、黒面や憤怒相は、むしろ大黒天と趙公明に共通するものである。中国で大黒天がほ
とんど祭祀されなくなってしまった原因のひとつには、この大黒天の「趙公明化」があると考
えられる。
そして、清代以降の民間信仰に強い影響力を行使した『封神演義』においては、趙公明は截
20) 呂威『財神信仰』(学苑出版社、1994年)12-25頁、及び崔良斌「財神趙公明形象的演変過程及其淵源」
(『咸陽師範学院学報』第27巻 5 期、2012年)67-71頁参照。
21) 前掲呂威『財神信仰』 1 - 3 頁。
22) これについて、弥永信美は「クベーラ的大黒」と表現し、分析を行っている。詳しくは弥永信美『大黒
天変相』(法蔵館、2002年)481-495頁参照。
23) 前掲澤田瑞穂『中国の民間信仰』104-116頁。
24) 前掲澤田瑞穂『中国の民間信仰』106頁。
明清期の瘟神と医神
39
教側の道士として登場する。そのあり方は完全に財神としてのものである。
『封神演義』では最後に、陣没した者の多くを封神し、天界の役職に就けるわけであるが、趙
公明と関連する四名は財神とされる。すなわち、趙公明が金龍如意正一玄壇真君に、蕭昇が招
宝天尊に、曹宝が納珍天尊に、陳九公が招財使者に、姚少司が利市判官に封じられる。現在、
多くの廟では、この五名を「五路財神」として祀っている。
一方で、『封神演義』では疫病を司る神は別に存在し、封神によってその地位に就けるが、そ
の主となるのは呂岳である。呂岳は物語のなかで、疫病を流行させて周の軍を苦しめる役割を
持つ25)。
呂岳乘了金眼駝、也在当中、把瘟丹用手抓著、往城中按東西南北、洒至三更方回。不表。
且説西岐城中、那知此丹俱入井泉河道之中、人家起来、必用水火為急済之物、大家小戸、
天子文武、士庶人等、凡吃水者、満城尽遭此厄。不一二日、一城中煙火全無、街道上并無
人走。皇城内人声寂静、止聞有声喚之音。相府内衆門人也逢此難。内有二人不遭此殃、哪
吒乃蓮花化身、楊戩有元功変化。故此二人見満城如此、二人心下十分著慌。
この段の描写では、呂岳は病気の原因となる毒を井戸に投げ、そのため西岐の城内の人々はす
べて疫病に罹患したのだとする。哪吒と楊戩だけは、常人と異なる身体であったため、病気に
なるのを免れている。
呂岳は最後に瘟㾮大帝の地位に封じられる。同時に、周信は東方行瘟使者に、李寄は南方行
瘟使者に、朱天麟は西方行瘟使者に、楊文輝は北方行瘟使者に、陳庚は勧善大師に、孫通は和
瘟道士に封じられる。これらは瘟部正神として扱われることになる。ただし、『封神演義』では
疫病に関する神々はまた主痘正神があり、こちらは余化龍親子が封じられている。
このように、『封神演義』においては疫病を司る神々が設定されてはいるものの、それは呂岳
を中心とした別の神になっている。趙公明は、全く瘟神としての役目を失ってしまっているの
である。
それでは呂岳などが、いま廟で瘟神として扱われているかというと、その例はあまり見ない。
『封神演義』の影響力は大きかったものの、他の瘟神に取って代わるほどのことはなかったよう
に思える。
『封神演義』の物語のなかでは、疫病が流行したときは、結局神農の薬によって治療を行って
25) 『封神演義』(江蘇古籍出版社、1991年)489頁。
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いる。このあたりは、伝統的な神農の役割そのままで登場している。
7 その他の医神
『中国民間諸神』には、薬王以外にも、いくつかの医薬の神が記載されている。
そこには、元帥神のひとつである高元帥の記載もある。高元帥は、温元帥や趙公明など、他
の有名な元帥神に比して知名度が低く、またそれほど廟で祭祀されているわけではない。むし
ろその神像を見ることは少ないと言ってよい。武将の姿を取ることが多い元帥神のなかで、お
だやかな白面の書生風の姿をしており、逆に目立つ存在である。
『三教捜神大全』には、高元帥の説話が見えているが、やはり医術に絡むものである26)。
帥受気於始元太乙之精、托胎於蒼州高春公家。母梅氏、甲子年十一月甲子日子時、生下一
団火光曜日。父母以為怪、投之江、薬師天尊抱之為徒。貌如冠玉、法名員、授仙剤以遊世。
(略)玉帝憫其為仁亦苦矣、以為足為帝之心為物造命者、遂封以九天降生高元帥之職。
生まれてすぐ、その怪奇なることを怪しまれ、父母に捨てられるが、薬師天尊の徒弟となる。
長じては医師となり、多くの人々を治癒した。死後、功績が玉皇大帝に認められ、神となっ
た27)。高元帥は、子どもの病気を治す役割で知られている。
この説話に登場する薬師天尊という神については、他の資料にはあまり見えないものである。
薬師如来の別称か、あるいは薬王に類する神かは不明である。
『中国民間諸神』には痘神の項目もあり、そこでは先にもふれた『封神演義』の余化龍親子の
記載もある。ただ、元帥神のひとつである張元帥の記載もあり、これもまた痘神の一種である
とする。『三教捜神大全』によれば、張元帥は名を張純、山東の人であった。玉皇大帝は張元帥
を「理麻痘役」の号を与え、痘神としたという28)。『中国民間諸神』によれば、この他に満洲地
域で鄧将軍が痘神とされ、また金元七総管も痘神の性格を有するものであった。
また『中国民間諸神』には薬王菩薩についての記載もある。さきにふれた薬王韋慈蔵のとこ
ろで、同名の薬王とされる韋善俊も、時に薬王菩薩と呼称されていたようである29)。
薬王菩薩は仏教の菩薩であり、多くの仏典にその名称が見えている。『妙法蓮華経』には、「薬
26) 前掲無名氏『三教源流捜神大全』190頁。
27) 前掲呂宗力・欒保群『中国民間諸神』443頁。
28) 前掲呂宗力・欒保群『中国民間諸神』400-401頁。
29) 前掲呂宗力・欒保群『中国民間諸神』442頁。
明清期の瘟神と医神
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王菩薩本事品」があり、そこでは薬王菩薩の功徳について詳しい話が載せられている30)。
宿王華、若有人聞是薬王菩薩本事品者、亦得無量無辺功徳。若有女人聞是薬王菩薩本事品、
能受持者、尽是女身、後不復受。若如来滅後後五百歳中、若有女人聞是経典、如説修行。
於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、囲繞住処、生蓮華中、宝座之上、不復為
貪欲所悩、亦復不為瞋恚愚癡所悩、亦復不為憍慢嫉妬諸垢所悩、得菩薩神通、無生法忍。
得是忍已、眼根清淨、以是清淨眼根、見七百万二千億那由他恒河沙等諸仏如来。(略)此菩
薩成就如是功徳智慧之力。若有人聞是役王菩薩本事品、能隨喜讃善者、是人現世口中常出
青蓮華、身毛孔中常出牛頭栴檀之香、所得功徳、如上所説。是故、宿王華、以此薬王菩薩
本事品嘱累於汝。我滅度後後五百歳中、広宣流布於閻浮提、無令断絶、悪魔、魔民、諸天、
龍、夜叉、鳩槃茶等、得其便也。
薬王菩薩と薬上菩薩は兄弟であるとされる。日本の寺院には、薬王菩薩と薬上菩薩の像が対に
なって祭祀されることがあるが、類例はあまり多くない。また薬王菩薩の像は、中国ではそれ
ほど一般的なものではないようで、筆者は中国の寺院や廟で、これまでほとんど見たことがな
い。この薬王菩薩が、徐々に民間における薬王神に変じていった可能性は高いが、まだ不明確
な点が多い。
おわりに
瘟神は疫病を流行させる存在であるが、また祀ることによって疫病を防ぐ存在ともなる。医
神が治療する対象は疫病に限らないが、病気を防ぐ存在として祀られることになる。ただ、広
い範囲で祭祀される医神はそれほど多くない。神農や扁鵲など、ごく一部の神である。他の多
くは、その地域特有の医神である。
瘟神や医神以外の一般的な神に対して疫病を防ぐ役割を与えることもある。よく知られてい
るのは、マカオの聖ポール天主堂跡(大三巴牌坊)の隣に祀られる哪吒太子で、清代に疫病の
難を免れたとして建てられたものである31)。このように、ある程度有名な神々は、疫病を祓う役
割も期待されることがあった。
むろん、疫病の退散を瘟神や医神に祈ったとしても、現代の目から見ればそれは効果のない
30) 『大正大蔵経』第九冊 No. 262鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』第六・薬王菩薩本事品(中華電子仏典協会 CBETA
http://www.cbeta.org/ のデータによる)
31) これについては、胡国年『澳門哪吒信仰』(三聯書店、2013年)を参照のこと。
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ものであったかもしれない。ただ、それは当時の人々にとっては重要なことであり、かつ有意
義な行為であったと考える。さらに、人々がいかに疫病を忌避していたかも、そこから読み取
ることができるのである。
◇法緣留言(—)
載入中…